王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

高円宮憲仁親王と韓国【中編】親王とサッカー

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文責:藤原 大翔 (明治大学王室研究会)

 

高円宮憲仁親王とは大正天皇の第四皇子である三笠宮崇仁親王の第五子である。平成14年(2002年)に47歳の若さで心室細動のために薨去した。

本記事は親王が健在中に果たした戦後初の皇族による韓国公式訪問を扱ったものである。

 

【前編】はこちらから↓

oushitsukennkyu.hatenablog.jp

 

この記事の目次

高円宮憲仁親王とサッカー

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日本サッカー協会の名誉総裁就任までの経緯

高円宮憲仁親王日本サッカー協会の名誉総裁に就任したのは昭和62年(1987年)4月1日のことである。

きっかけとなったのはサッカー協会内での他愛もない雑談の時だった。

当時、サッカーという競技は今ほど注目されているスポーツではなかった。

野球の人気との格差は今でこそいい勝負となっているが、サッカーは日が当たらない期間が長く存在していた。

 

そんな中で、協会顧問を務めていた英国人のクリストファー・マクドナルドが

「皇族に名誉総裁を依頼してみてはどうか」

と提案した。

英国では王族が名誉総裁に務めていることなどからの発言である。

当時の事務理事であった長沼健や理事の岡野俊一郎もこの提案に賛成した。

「皇族が名誉総裁となればサッカーにも陽の光が当たってくれるだろう」

そのような期待の中で、協会内の意見は一致していった。

 

無論、協会内で意見がまとまったからといって皇族が了承してくれなければ話は水の泡である。

そしてもう一つの問題は皇族の誰に依頼するかということだった。

長沼と岡野はこの問題について悩みながらも協会顧問のマクドナルドは「良い皇族を知っている」と自信ありげに呟いた。

マクドナルドは日英協会などの会員で皇室との付き合いがそれなりにあった。

高円宮殿下という素晴らしい方がいらっしゃる」

マクドナルドのこの発言に二人は賛成し、協会での審議のもと全会一致で依頼することが決定した。

早速憲仁親王へ名誉総裁就任の依頼を宮内庁を通して送った。

憲仁親王は快諾した。

サッカーとの付き合い

憲仁親王がサッカーとの付き合いを始めたのは学習院中等科の頃からである。

同時にテニスも初めており、どちらも遊び程度のものだったとしている。

テレビ番組の「三菱ダイヤモンドサッカー」を見てはそのプレーに憧れていたと伝えられている。

部活動で本格的に始めたのはホッケーだったが、サッカーは生涯を通して関わったスポーツであった。

日本サッカー協会の名誉総裁に就任すると「TONO」というフットサルサッカーチームを結成したようである。

殿下の「殿」であろう。

薨去する二ヶ月前にも高知国体の夏季大会で背番号11を背負い2得点を挙げている。

 

日本がワールドカップ出場を決めたマレーシアでのイラン戦は宮邸で観戦していた。

初出場が決まると宮邸の中に親王歓喜の声が響いたそうである。

久子妃は『思い出の宮さま』の中でこう振り返っている。

「それはそれは大変なお喜びようでした。宮さまはスポーツをご覧になる時いつもは割合に麦んでご覧になられていましたが、あの試合の時は『よーし!』とガッツポーズをなさっていました」

名前だけの名誉総裁にはならない

憲仁親王はすでに数々のスポーツの名誉総裁に就任していた。

その中で親王がこだわったことは「名前だけの名誉総裁にならない」ということであった。

自身が関わる全ての団体の競技を余すことなく研究し、実践していた。

サッカーは幼少期から嗜んでいたが、サッカー自体を部活動などによって励んだことはなかった。

しかし、サッカーと親王の付き合いは長く、プレーも一人前だったという。

元日本代表監督の岡田氏からは「殿下は学生時代サッカー部だったのではないのですか?」と驚きの声も上げられている。

 

【前編】でも述べたが、幼少期の憲仁親王は運動に対しては忌避感を抱いており、どちらかといえば文化系の人柄だった。

それが成長していくにつれてサッカーなどの様々なスポーツに打ち込んでいくようになる。

「スポーツの宮様」と言われた背景には多大なる努力が隠れていた。

実際に名誉総裁に就任すると、日本サッカー協会VS京都府サッカー協会で親善試合を計画し、それを実行している。

憲仁親王と協会メンバーは共に汗を流し、親王は非常に楽しんでいたことが伝えられている。

気さくな人柄 川淵三郎との付き合い

Jリーグは発足パーティーで当時チェアマンだった川淵三郎は初めて憲仁親王と顔を合わせた。

川淵の回想では「おそれおおくて、それまで殿下のお姿を拝見するばかりだった」と述べている。

しかしこのパーティー親王の人柄に触れ、以後は憲仁親王にとっても大切な協会の仲間となっていった。

親王は川淵のことを「ブチさん」と呼んでいたようである。

憲仁親王のそのような態度は徐々に協会内部から日本のサッカー界を照らしていくことになる。

親王薨去に際して川淵三郎は「ご遺体と対面した時、涙が止まらなかった、太陽を失った気分だ」と後に回想している(『俤 高円宮殿下の思い出』より)。 

高円宮憲仁親王とワールドカップ招致合戦

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ドーハの悲劇

日本と韓国は熾烈な招致合戦を繰り広げた。

互いに単独開催を望んでいたからである。

日本の方が初めに開催の立候補を表明したが、「ドーハの悲劇」による日本勢初のワールドカップ進出が阻まれて以降、韓国側などから日本で開催する意義が問われ始めた。

「日本はワールドカップへの出場も果たしていないのに開催地になり得るか」

韓国側のこのような意見には当時の協会側にとっても言い返すことが困難だっただろう。

 

そんな中、FIFA側から折半案として日韓共催が協議し始められた。

両国の関係がサッカーによって悪化するのを防ぐ狙いがあったのだろう。

日本側にとっても韓国側にとってもこれを機に両国の関係がさらに悪化するのは避けたい事態だった。

とは言っても、本音では両国とも単独開催を望んでいた。

また一方で、子供たちにワールドカップの舞台を自国で見せてあげたいという思いも共通していた。

日韓共催決定「とても良いことだと思います」

FIFAアベランジェ会長は実は日本単独開催支持派だった。

そもそも、サッカー後進地域のアジアでの開催を提案したのは会長だったのである。

「やるなら、日本で」

とまでいってのけた会長だったが、やがて日韓共催への意見に傾いていく。

正式に日韓共催が決定した時、長沼は心底がっかりしたという。

FIFAはアンフェアだ!負けたっていい、投票に持ち込んで開催地を決めればよかったんだ!」(『高円宮憲仁親王』より)

と憤りながらチューリッヒから日本への帰途についた。

 

そんな最悪とも言えるような結果をただ一人喜んだ協会の人間がいた。

高円日本サッカー協会宮憲仁親王である。

親王日韓共催を画期的なことと述べ両国関係が良くなっていくことに期待した。

「歴史的なワールドカップになります」

とまで発言している。

サッカーを通じて日本と韓国の関係を良くすることに執念を燃やし始めていたのである。

FIFAの決定に怒り心頭だった長沼らも「殿下がそうおっしゃるのであれば」として飲み込んだ。

憲仁親王はすでに日本サッカー協会の中で信用されている立場におかれ、名誉総裁とありながらも協会全体を指揮していたことがこのような場面から理解できる。

協会の一部でありながらも、親王は確実にその先頭に立っていた。

高円宮憲仁親王と韓国訪問までの道程

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親王訪韓意思

本記事の【前編】でも話したが、憲仁親王は訪問する先々の国々での刹那の時を大切にすることを心構えとしていた。

皇族という身位にある以上、一度行った国に再度訪問することが難しいからだと述べている。

そんな親王にとって、一番の隣国である韓国への興味は尽きなかった。

自らも「皇室のオク」を自称し皇位継承順位から離れた立場にあった親王

このような外国交際は親王自身が皇族たる所以を喚起させるある意味一つのアイデンティティの形成に役立っていたのかもしれない。

 

親王のこの発言に対して日本サッカー協会の長沼や岡野は「是非ご訪問を」と賛同した。

憲仁親王訪韓は訪問した平成14年の2年前から綿密に計画が立てられていた。

平成12年4月にソウルで行われた日韓親善試合に出席の予定があったが、宮内庁側の思案で「天皇陛下の韓国訪問問題に影響しかねない」としてこれは廃された。

つまり、憲仁親王がワールドカップではなくその2年前の親善試合に公式訪問してしまうと、韓国側から2年後のワールドカップ天皇を招待する案が持ち上がる可能性がある、ということだろう。

皇族の公式訪問であえも歴史的と言われた事案である。

天皇の韓国訪韓となれば、戦前も戦後も例がない。

歴史的な訪韓どころの騒ぎではないだろう。

宮内庁の慎重さが窺える一幕だと思う。

事実、憲仁親王天皇訪韓は時期尚早との立場を示している。

しかし、「いづれ天皇陛下訪韓することに意味がある」と述べていることも忘れてはいけない。

韓国「天皇または皇太子の訪韓を」

平成14年の予算委員会高円宮ご夫妻の韓国訪問の旅費を組むために政府から宮内庁へ内報があった。

しかし、それでも未だに親王の正式訪韓は決定していなかった。

韓国側が依然として天皇か皇太子の訪韓を望んでいたからである。

その前年の平成13年には今の上皇(平成の天皇)が桓武天皇の母が百済移民族の高野新笠をとしていることを挙げ韓国とのゆかりを感じていると述べたばかりであった。

韓国人としても皇室に対して興味や関心が湧いてきていた。

日本政府は当時の米国同時多発テロ歴史認識の諸課題から天皇の韓国訪韓には難色を示している。

結局、小泉純一郎総理大臣のソウルで行われる開会式への出席が両国間の調整で決定された。

そして、金大中大統領の横浜で行われる決勝戦と閉会式への参加が共に了承された。

国家元首としては大統領である金大中の方が上のため、韓国側としては天皇訪韓させたかったことだろう。

韓国「高円宮同妃両殿下が御訪韓されることを歓迎する」

憲仁親王夫妻の韓国公式訪問が正式に決定されたのは平成14年4月18日付の韓国外交通商部からの招請状が日本政府に届けられた時だった。

その内容は以下の通りである。

「韓国外相通商部は、在韓国日本大使館に対して敬意を表するとともに、2002年FIFAワールドカップ開催に際して、高円宮同妃両殿下が御訪韓されることを歓迎する旨を通報する光栄を有する」(『高円宮憲仁親王』より)

その後、同行記者や随行員などがすべて閣議決定されていく。

宮内記者会が同行記者団を組織し記者の派遣を統制することは、憲仁親王夫妻の外国訪問では初めてのことだった。

宮内庁や政府の警戒態勢や気合が感じられる。

高円宮憲仁親王訪韓前日インタビュー

憲仁親王と久子妃は訪韓前に際してメディアからインタビューを受けている。

ここではその一部を紹介したい。

 

まず、親王の韓国へのイメージについてである。

韓国映画やキムチを従来から嗜好の一つとして挙げている。

憲仁親王国際交流基金に在職していた当時も同僚を連れて辛いラーメンを食していたようであり、日頃から韓国料理店にも足を運んでいた。

特にキムチでは手長だこ(ナッチ)を好んでいたようだ。

訪韓時には本場の韓国料理に舌鼓をすることが楽しみだと述べている。

 

文化の根っこに共通点を持っている日韓両国はお互いに隣国であるということを踏まえながら意識することの必要性を訴えている。

言語の観点からも日本語と韓国語は主語・目的・動詞のS・O・Vで構成されることからも日本と韓国の近似性を指摘した。

 

日韓共催に対しては「導火線」とも称している。

両国の離れていた距離が共催という素晴らしい方法によってさらに近くなることを期待し、関係改善や相互理解などへの「導火線」という意味である。

韓国という国を肌で感じ、様々な文化に触れていきたい旨を語った。

 

日韓関係に対しては以下のような意見を呈している。

雅楽などが中国を経て朝鮮半島を経由し伝来したことを踏まえ日本と韓国の同一性を訴える。

古代には日本と朝鮮半島は現代よりもずっと親密な関係にあったことを指摘し、今のような断絶状態から解き放つことが義務とも述べている。

親王はまた、21世紀が両国民にとって前向きな時代になることを望んだ。

草の根の交流を支持し「人と人との交流」こそが日韓双方にとってプラスに働くことを希望している。

 

産経新聞東洋経済日報社による前日インタビューによる)

 

その他にも韓国サッカーのレベルの高さや天皇訪韓に対しての意見も述べた。

後者に関しては本記事の番外編として新たに設けさせていただく予定である。

後編に続く

さて、中編では憲仁親王とサッカーとの関係性から探り、親王夫妻の韓国訪問の直前まで追ってきた。

そして遂に憲仁親王が海を渡る。

 

親王も「近くて遠い国」と述べた韓国。

 

次回、韓国で憲仁親王

・どのようにして迎えられたのか

・どのような日々を過ごしたのか

を追っていく。