王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

鶴間和幸『人間・始皇帝』を読んで(1)

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鶴間和幸『人間・始皇帝』より

 

0、目的

鶴間和幸氏の著作『人間・始皇帝』において、着目すべき点や史料比較、引用されている 文献のメモとしてこのノートを用いることにする。

 

1、算術
史料『九章算術』 第一の関では所持金の2分の1、次の関では3分の1と関所ごとに分母が1ずつ増えていき最終的に5つの関所を通過する。税額の合計が1斤となるとき、最初の所持金はいくらか。
*なお、一斤は16両、1両は24銖である。

史料『嶽麓秦簡』 三か所の関で所持金から5分の1ずつ税金を徴収され、最終的な所持金が1両となったとき、最初の所持金はいくらか。
*なお、一斤は16両、1両は24銖である。

 

2、孝文王・荘襄王の早世について

孝文・荘襄の早世について『史記』では呂不韋を怪しむ記述がない。呂不韋は多くの食客 をかかえて「奇貨居くべし」の逸話まで残っていながらも、始皇帝の父親説(臨月的にありえない)など不名誉な疑惑がかけられ、戦国四君などよりは評価が低い印象である。​ならば、二王の早世に関して何ら嫌疑をかけられていないのか不思議には思えないか。 『史記』☞昭王は56年10月に崩御(秦本紀)
『編年記』☞昭王は56年9月に崩御 孝文王の即位期間は3日と言われ、昭王56年末の3日前に即位して大みそか崩御したと いうことも『編年記』で発覚。しかし昭王56年の翌年に孝文王元年を置き、その翌年を荘襄元年としている矛盾に突き当たる。​鶴間氏はこれを始皇帝の正統性の主張のために、その祖父にあたる孝文王を尊重したと考えている。

3、趙正の即位

​趙正の13歳での即位は歴代の秦王で最も若い。​秦の戸籍でも小男子として登録される年齢である。なお、秦では年齢より身長による評価が重視され六尺五寸の150センチが基準で、実年齢17歳で成人男子として戸籍に登録されるらしい。 趙正の即位にあたって、自信の王陵の建設をはじめ、当初から地下深くまで掘り進めたらしいが、そのアイデア呂不韋によるものと考えるべきだと思う。始皇帝陵東の兵馬俑から 「相邦呂不韋造」​と書かれた青銅も発掘されている。なお”相邦”とあるが『史記』では”相国”であるのだが、これは高祖劉邦の避諱である。

 

4、逐客令

史記』秦本紀では鄭国と逐客令との関係性を言及するどころか鄭国に関する記述すらな い。しかし李斯列伝や水利の歴史をまとめた『河渠書』には、鄭国内諜事件により外国人排 斥運動がおこり李斯はそれをいさめたことがある。なにぶん鄭国事件から9年もあとのこと なのだから。清代の注釈家、梁玉縄も『史記志疑』で​逐客令はロウアイ事件によるもの​とし ている。

 

5、鄭国渠と水利page1image1715456 page1image1716800 page1image1708928

鄭国渠の完成で​漢中西部から洛陽あたりまで​の、塩害の地を灌漑することとなり、司馬遷 はその経済力が秦の統一戦争の成功に寄与したと記すほど。 なお、「​乾燥した土壌では地下水位が上昇し、地表に塩分が噴き出る。これを涇水の泥水 で押し流して灌漑するのが鄭国渠の知恵​」との説明が理解できない。

 

​岡村曰く、


1.地中に塩分が溶け込んでいた
(昔海だったor海風の影響ect) 2.地下の水分が蒸発する際に地中を通る[これを地下水位上昇と表現したと仮定(乾燥土壌= 高温地帯の可能性高い)]


3.地中に溶け込んでいた塩分が地表面に露出
補足
地中を通る過程で地下水が食塩水になったと考えてる

 

6、母太后密通と秦の倫理 張家山漢簡『奏讞書』には、「亡き夫の喪中の棺の前で別の男と密通した女が、夫への無 礼に関しては問われないが、夫の父母に対しての不孝で罪に問われるのではないか。」とい う事件ファイルがあった。結果生きている父に三日食事を与えないのは不孝で棄市(斬首し て市場にさらす)になるが、​亡き父の祭祀を3日怠っても罪にならないのだから、同様に死 んだ夫を欺いても罪にならないとし無罪となった。

 

7、始皇帝暗殺未遂 『史記』刺客列伝の大部分が、『戦国策』(の原本)の引き写しである。 荊軻は『史記』において刺客列伝に記述されているがために刺客としての面が強調されて いるが、​縦横家のように各国で情報収集していた可能性​を指摘できるそうだ。秦の東方進出 の動きと荊軻の移動が連動性をもっていて最後に燕の太子丹にたどりついたのが偶然とも言 えない。そして刺客としての側面に注目しすぎるあまりにそもそも咸陽の宮殿での顛末を暗 殺失敗というように語られているが、​実はヒ首は脅す道具に過ぎず趙正に優位な条件での講 和を取り付けるのが目的だった​と指摘する。春秋のころに桓公の臣の曹沫の行った行動を参照してほしい。

 

8、天下一統秦は斉に賄賂を贈り友好を保ち、東方五カ国へ支援しないように計らっていたが五カ国滅亡後には斉は用済みとなる。斉王建は防御を固めるも、王賁に回り込まれて捕虜にされる。 斉人たちは王を憎んだ。 始皇帝は各国の製鉄業者を辺境の開拓地に移す措置をとったが、この時に移された製鉄業 者は長い時を経て前漢武帝のころに活躍するに至る。彼の措置は正しかったようだ。物産を手に入れるだけでなく、人や技術も見事に接収する手腕は名君そのものではないか。 また各国の王君たちも殺害はされておらず、それぞれ辺境の地に遷り天寿を全うしたというのだ。当時の​国家の滅亡はその君主の生死にかかわらず、土地神と穀物神の社稷を破壊することにあった​らしい。実際秦の滅亡に際しても秦王子嬰の死と秦の滅亡はリンクしていない。

 

9、始皇26年(紀元前221年)の謎 始皇帝趙正の人生の中でも即位二十六年目は東方六カ国の殲滅に成功した天下一統の年であり『史記』にも中央から天下統一が宣言された記念すべき年であるのに、一次史料『編年 記』では一切の記述がない。司馬遷は約100年後の人物であり彼の『史記』は編纂史料であるから、ある意味印象論的に記述された可能性もあり、​紀元前221年当時の人々における天 下一統はまた違ったものであったかもしれない。 始皇本紀は天下一統以降に急激に文字数が増加していくらしい。具体的には始皇25年が43文字で、26年は930文字であるなどその増加は明確である。司馬遷は一統期12年の前半を統一事業、後半を匈奴百越対外戦争の時期としている。一統以降の字数増加は、そのまま司馬遷が彼の統一事業を評価していたことにつなげられるとまで言えば安直だが、近年の研究はもっぱら一統後の統一事業に視点が向けられるようになっている。

そこで始皇本紀には出来事の年号は記されても季節や月に言及されているものはわずかである。 しかし近年の出土史料には月日まで克明に記されていることも多い、それを利用していこう という論である。 里耶秦簡は涸れた古井戸に地方行政の文書を投棄したもので、奇跡的な保存状態を保って出土した。ほかにも湖南省ではたくさんの簡牘史料が可読状態で出土しているが、​長江流域の洞庭湖に近い適度な湿度と泥土​によるものだという。そこには始皇帝の一統にともない行政で用いられる文字の変更の通達が含まれていて、王の「命」から皇帝の「制」、王の 「令」から皇帝の「詔」に変えること、「皇」の字の上半分は「自」ではなく「白」であることなど詳細であった。また、「天帝を観献する」から「皇帝を観献する」、「帝子の游」 から「皇帝の游」に変更するなど、​皇帝と天帝を同一視すること​による自己の権威の上昇を狙うイデオロジカルな側面もみられた。

 

10、言葉へのこだわり

〇御前会議において皇帝の号を決めたことは有名だが、「三皇五帝」に並びたいのではなく それを超えるというイメージの元名付けたという。​「皇」は煌煌たるという意の形容詞であ り、それを帝という字につなげたと考えるべきという。

〇李斯は天下を「海内」と言い換え、永遠に続く漠然とした陸地よりも海に囲まれた領域の 意識を持っていたと考えられる。燕斉楚の三カ国を滅ぼし、秦の領域が海に至ったことに起 因する。

 

​私のごとき末輩にできることといえば、先入観無きクリアな目で史料を読み批判することであろう。