王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

牛飼いの兄弟から天皇へ!23代顕宗天皇・24代仁賢天皇の兄弟愛

f:id:Fujisakiand:20200424203826p:plain


こんにちは。藤原です。

 

本日紹介するのは

23代顕宗天皇

24代仁賢天皇

です。

この二人、実は兄弟なんです。

 

牛飼いの子から兄弟揃って天皇へー。

 

その物語を見ていきましょう!

 顕宗天皇仁賢天皇の幼少期

f:id:Fujisakiand:20200426003435j:plain

22代清寧天皇の即位

21代雄略天皇には皇子が3人ありました。

そのうちの一人が22代清寧天皇として即位したのは、西暦480年正月15日のことです。

先帝である雄略天皇は武勲猛々しく大規模な政策をも躊躇を厭わなかったそうです。

一方で、皇位継承争いには残酷なまでの仕打ちを兄弟や親族に繰り返していました。

雄略天皇の餌食の一人となったのが、今回の主人公である顕宗天皇仁賢天皇の兄弟の父でした。

市辺押磐皇子(イチノベオシハミコ)に他なりません。

市辺押磐皇子雄略天皇によって疑いの目を向けられました。

実は、皇子は先帝から密かに儲君を受けていたと言われています。

雄略天皇にとってこれは気に入らないことです。

市辺押磐皇子雄略天皇によって殺害されました。

その方法はあまりにも残酷で、皇子の体はバラバラに切り刻まれ、馬の飼い桶に捨てられました。

最後には土に埋められたそうです。

 

 詳細は下記へ!

oushitsukennkyu.hatenablog.jp

 

そんな父宮を見てきたからでしょうか。

清寧天皇自身も皇位簒奪を企てていた星川皇子を討伐し皇位についていました。

雄略天皇の夫人であった吉備稚媛(キビノワカヒメ)は自身が生んだ星川皇子皇位につけたかったのです。

生母のこのような行動は歴史的にも顕著ですね。

後醍醐天皇が寵愛した阿野廉子が義良親王(97代後村上天皇)を皇位につけるために護良親王を排斥した事例と似ています。

 

話を戻します。

星川皇子は母に

皇位を狙うならまず大蔵を取れ」

と言われていたようです。

大蔵とは今でいう財務省のような場所です。

それに従った星川皇子は大蔵を手中に収めますが、大伴室屋大連らが皇太子(清寧天皇)を守るために行動に出ました。

大蔵ごと火を放ち星川皇子を焼死させます。

 

三種の神器は無事に清寧天皇のもとへ渡りました。

22代清寧天皇の誕生です。

しかし、天皇は子宝に恵まれませんでした。

生涯、一人たりとも皇子女は誕生していません。

その現状に憂慮した天皇は後継となる皇子を欲すようになります。

また、天皇は子供ができないことを悟ったのでしょう。

確実に即位したことを後世に残すため、白髪部膳夫などの遺跡を残していきました。

牛馬の世話をする二人の少年

清寧天皇は一世一代の大儀式である大嘗祭を挙行するために、伊予来目部小楯(オダテ)を播磨国へ遣わしました。

供物を調達するためだったようです。

小楯は明石郡の首である忍海部造細目(オシヌミベノミミヤツコホソメ)の家で開かれた宴で細目に奉仕する二人の少年を見つけます。

 

ここで場面を雄略天皇によって殺害された市辺押磐皇子の死の直後へ。

 

雄略天皇によって父宮が残酷な仕打ちになった今、顕宗天皇仁賢天皇が大和に残っていることは大変危険でした。

自分たちも雄略天皇の餌食になるかもしれない…。

あまりの恐ろしさに急ぎ身を隠していたようです。

顕宗天皇仁賢天皇(この段階では皇子だが便宜上左のように記す)は吾田彦の付き添いのもと、大和を後にします。

逃げ延びた先は現在の兵庫県明石市付近だとされています。

そこで兄弟は改名して丹波小子と名乗り、縮見屯倉シジミノミヤケノオビト)に仕えることになりました。

兄弟を天皇へ!

清寧天皇2年、思いもしないことが兄弟を襲います。

中央から派遣されてきた小楯と名乗る播磨国国司が主人である縮見屯倉首が自宅で開いた宴席に招かれていました。

中央からの官人ということは今この場にいる人々の中では最も天皇に近い人ということ…。

顕宗天皇は兄宮である仁賢天皇に訴えます。

「今こそ名を明かし尊い身分であることを告げましょう」

しかし、兄は消極的でした。

暴露して殺されるのではないか…

ただの牛飼いの身分に落ちた自分たちを誰が皇親であると理解してくれるのか…

兄の心労をよそ目に、弟は譲りません。

「いつまでも牛馬の世話をしているよりも命をかけて名を明かす方が潔いでしょう」

酒宴のお開きも近づいてきました。

再び弟が兄へ訴えます。

「私たちは履中天皇(17代・仁徳皇子)の孫なのです。それなのに苦しんで牛馬の世話を続けている。このままこれを続けるなら名を明かして死んだ方が良い!」

そこで、この兄弟恒例のゆづりあいが発生します。

「弟以外にこのような大事を示せる人はいない。お前が言ってくれ」

と兄である仁賢天皇

「自分には才はなくこのような大業をお受けできません」

と弟の顕宗天皇

そのようなやりとりを続けること二、三度でした。

酒宴もいよいよたけなわです。

最後に参加者が舞を披露していました。

その時、播磨国国司の小楯は、兄弟のやりとりの内容は理解していませんでしたが、互いにゆづり合う姿を目撃していました。

縮見屯倉首に対して

「人を尊んで己を後にする姿勢はまさに天子の器にふさわしい!礼節を弁えていますね」

と言います。

この時、兄弟の躊躇いは自信に変わります。

小楯から舞を命じられ、その舞と歌に任せて自分たちの身分を明かしていきました。

舞終わると、小楯を含めた酒宴の参加者が皆等しく頭を地に垂れていました。

 

掛けまくも畏き皇親であるー。

 

小楯は一族をあげてお迎えすることを奏上しました。

清寧天皇に伝えると天皇は大変喜んだと云います。

皇子がいなかった天皇にとって、たとえ遠縁でも後継者が確保できたことに安堵したのでしょう。

小楯には天子の(しるし)を持たせて播磨国まで奉迎にあたらせました。

天皇となり得る兄弟はこうして大和に迎えられていきました。

 

牛飼いの身分から天皇になった兄弟。

人生はあと一歩の勇気が大切ということでしょうか。

ちょっとスケールが違いますかね。笑。

顕宗天皇仁賢天皇の即位

皇位の譲り合いと飯豊天皇

先述もしましたがこの二人はお互いを尊敬しすぎるあまりか、互いに皇位を譲り合ってなかなか天皇の位が安定しません。

清寧天皇がいよいよ崩御すると、皇太子に擁立されていた仁賢天皇は弟への即位を促します。

「弟が勇気を出して身分を明かそうなどと言わなければ今の自分たちはなかった。功があるのは弟の方であるのだから弟が即位なさい」

一方で、顕宗天皇にとっては

「兄宮が即位なさるのが上下の別からして当然」

と考えていました。

この間、皇位の空白が生じてしまったので、二人の姉宮である飯豊皇女が政務を執ったとされています。

飯豊天皇の即位がうたわれている時期ですね。

天下の人民は互いに譲り合う兄弟の二人を見て

「兄弟が仲睦まじいと人民にとっても仁の心が広がって良いことだなぁ」

と話し合っていたようです。

この時代の方々は意外と楽観的に見ていたのでしょうか。

弟・顕宗天皇が遂に即位

いつまで経っても姉宮に政務を任せるわけにはいかないという意見は兄弟の中でも一致していました。

百官の群臣たちは

「これ以上の空位期間は諸外国に対しても失礼にあたります。兄上のお譲りをどうかお受けになって無窮の宝祚をお継ぎになって下さい」

と弟の顕宗天皇に懇願しました。

そこで、天皇はようやく承諾の詔書を煥発し、飛鳥の八釣宮で即位しました。

父・市辺押磐皇子の恩人と雄略天皇陵の破壊計画

市辺押磐皇子の遺骨探しへ

兄から譲られて即位した顕宗天皇にとって心残りだったのは父・市辺押磐皇子のことでした。

雄略天皇によって殺された父宮の遺骸を回収したい。

兄弟きっての願いでした。

古老の臣下たちを集めて情報収集に取り掛かると、ある一人の老婆が

「お骨が埋められた場所を知っています」

と述べました。

近江国まで老婆に先導させるとそこには本当に白骨化した遺体がありました。

天皇は泣いて喜びます。

しかし、遺体は複数ありどれが父・市辺押磐皇子のものであるのかわかりません。

そこで皇子の乳母をしていたものが

「皇子は上歯が抜けておりました。これで見分けがつくかもしれません」

と言いました。

髑髏を判別してみましたが一向に区別がつかなかったと伝えられています。

後に、そこには2つの御陵が建てられ、葬儀も厚く行いました。

老婆は宮の近くに住まわされ、なに不自由ない生活を送ったそうです。

父の仇・雄略天皇への恨めしさ

しかし、雄略天皇への恨みは増すばかりでした。

顕宗天皇はついに雄略天皇の御陵を破壊することを提案します。

しかし、兄である仁賢天皇

雄略天皇は憎しといえども清寧天皇の父宮である。清寧天皇が迎え入れてくれたから今の私たちがあるのではないか」

兄は清寧天皇への感謝と人民の動揺を防ぐためにそのようなことはすべきではないとして諫めました。

天皇はすっかりこれに納得したようです。

顕宗天皇崩御仁賢天皇の即位

兄にとっては弟に先立たれる形となりました。

弟の顕宗天皇崩御します。

兄である仁賢天皇が即位する運びとなりました。

天皇は弟に皇位を譲った後も皇太子として天皇の補佐を務めていました。

そして、弟が神去った後においても、父・市辺押磐皇子に仕えていたかつての臣下に感謝することを継続していました。

雄略天皇から逃げていた佐伯部仲子の子孫らを探し出し、佐伯造として優遇しました。

仁賢天皇に伝えられる日本書紀の記述はわずかです。

やがて、崩御し埴生坂本陵へ葬られます。

仲の良い兄弟・顕宗天皇仁賢天皇を考える

f:id:Fujisakiand:20200426003516j:plain

この二人は幼い時に父を雄略天皇によって虐殺され、小楯が大嘗祭の供物を調達しに播磨国に来るまでは、屯倉の首に仕える牛飼いの少年でした。

長期の間、本当の身分を明かすことなく、牛や馬の世話をしながら暮らしていた二人にとって、小楯が現れた時はどのような気持ちだったのでしょうか。

民と混じれての辺境の地での暮らしは後の二人にとってプラス面に働いたことは事実でしょう。

天下万民の苦しみや生活を理解することは君主の立場に立つものとして何よりも重要視されるものです。

 

臣下に下り即位した天皇例は宇多天皇醍醐天皇の例がありますが、いずれも宮廷の中の世界には留まっていました。

しかし、顕宗天皇仁賢天皇の二人は父を惨殺され遠く播磨国まで落ち延び、身分を隠して牛馬の世話に従事していました。

臣下どころか一般庶民並みの生活も経験していたことでしょう。

 

この二人の天皇は互いに助け合い、諫め合いながら政務を執行していきます。

仁賢天皇紀の記述が日本書紀に少ないことは天皇の皇太子時代には弟の顕宗天皇と共に政務を見ていたからでしょう。

その記述が託されている場所は顕宗天皇紀と共有されているのです。

 

歴代天皇を概観致しますと、兄弟間の関係が険悪な例が多い事に気づきます。

そういった面は顕宗天皇仁賢天皇がいかに特殊性を帯びた即位であり天皇であったことが理解されます。

 

牛飼いの子から天皇へ。

 

そこには深い兄弟愛と父への感謝がありました。

 

 

王室研究会 藤原

 

 

参考文献

宇治谷孟日本書紀(上巻)(下巻)』講談社学術文庫

次田真幸『古事記 (上)(中)(下)』講談社学術文庫

笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』中公新書 

北島静波『天皇陵総覧』新風舎

皇室辞典編集委員会『皇室辞典令和版』角川書店