王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

フランス通史⑩ 第一次世界大戦~第五次共和制

こんにちは。愛知大学王室研究会代表です。

今回はほとんど王室については触れません。

前回

 

oushitsukennkyu.hatenablog.jp

 

 

一次世界大戦

1914626日にオーストリアの皇太子夫妻がセルビア系(スラブ系)の愛国者により暗殺されるサラエボ事件が起こります。

f:id:Fujisakiand:20200518204806j:plainサラエボ事件

ただここではオーストリアの皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は皇太子が高齢だったために戦争は起こそうとはしませんでした。

しかしドイツがこれを機にゲルマン民族勢力を伸ばすことができると考えオーストリアに戦争を起こさせようと画策しオーストリアセルビアに対し受け入れることができないような最後通牒を行い723日にオーストリアセルビアの戦いが始まります。

この時フランスの大統領ポワンカレは局地的な戦争と考えドイツやロシアが背景にいることは考えておらずロシアに仏露同盟の確認のためロシアに渡航していました。

ドイツは仏露同盟があるため後々はフランスが参戦してくると考え電撃戦を仕掛けロシアが参戦したときには東部戦線に戦力を集中できると考えていました。

オーストリアセルビアに宣戦布告をしたときにドイツは総動員令を発布し一気に軍事展開を始め対抗して81日に総動員令を発布し83日にドイツはフランスに対し宣戦布告をします。

パリへ侵攻するために中立国のベルギーを経由しようとするがベルギーが拒否し、ここで誤算だったのはドイツが無理やりベルギーに侵攻したことで84日にイギリスがドイツに対して宣戦布告します。

一方フランスは4日に議会は政府に全権を委任し挙国一致政府が作られ、ドイツ軍は軍事展開の足並みがそろわなかったことでパリまで進軍することができずフランス軍が態勢を立て直し戦うことになります。

マルヌ会戦である程度はドイツ軍を押し戻すことに成功しますが国外にまでは追い出すことができず膠着状態が起こり地獄の塹壕戦が始まります。

f:id:Fujisakiand:20200518210942j:plain塹壕(ドイツ側)

1914年にはロシアが参戦しドイツは東部戦線が作られ厳しい状況になります。

総力戦になったことから植民地からの徴兵が始まりフランスはセネガルからイギリスはインド兵が有名ですがオーストラリアやカナダからも徴兵されます。

日本は1917年に連合艦隊を援護するために軍艦が地中海に派遣され見返りとして太平洋のドイツ利権を獲得することになります。

アメリカはフランスやイギリス、ドイツにも借款をしており莫大な利益を得ていて参戦はしていなかったがドイツの1917無制限潜水艦作戦によりアメリカ商船にも被害を被ったことでウィルソンが1917年連合国側として参戦することになります。

f:id:Fujisakiand:20200518211140j:plainUボート

しかし1917年にロシア革命が起り革命政府はツァーリを倒した後レーニンが率いるボリシェヴィキが主導権を持ち革命政府を倒し赤軍のもと軍事独裁になります。

1918年にロシアはドイツと単独講和を結び戦線を離脱します。

これにより西部戦線のみとなりますが戦局必ずしも好転せずアメリカの本格的な参戦を待つことになります。

経過として1918年にドイツ軍の最後の大攻勢である1918年春季攻勢を行いパリを砲撃圏内に入れました。

ドイツ国内ではロシアの影響で社会主義政党である社会民主党が権力を持ちます。

ドイツは膠着している戦況と革命の可能性を考え決定的に負けていたわけではないが19181111日に休戦協定を結ぶことになり事実上の敗戦となります。

社会主義の活動が活発化してソヴィエト(評議会)をまねたドイツ語でレーテとよばれる評議会運動が行われキール軍港の反乱から始まるドイツ革命が起こり帝位の廃止と社会民主党の臨時政府が成立することになります。

フランスでも実は反乱がおこっており1917年の危機と呼ばれる大きい規模の出動命令拒否が起こっていました。

1916年のヴェルダン攻防戦やソンム川の攻防戦でドイツ軍以上の戦死者を連合国は出し失敗しておりニヴェル攻勢でも大損害をだしていることが原因として挙げられます。

大規模な命令拒否により多くは軍事裁判にかけられるが体制が崩れずに済んだのはペタンというヴェルダン攻防戦で活躍した軍人が総司令官に就任し兵に対し温情をもって扱うようにしたからです。

この戦争により国内で派兵した兵数は約800万人に及び戦死者は6分の1にまで広がり、戦死者の4割が農民で主戦場はフランス北部でした。

1111には各地で記念集会が行われ1922年には国民の祝日として制定され現在も存在しています。

戦間期

 

1919年のヴェルサイユ条約はフランスの首相クレマンソーによるドイツに対して徹底して抑え込むような基調のもと結ばれ、フランスはアルザス・ロレーヌ地方がフランス領になりドイツに多額の賠償金が課せられることになります。

f:id:Fujisakiand:20200521155501j:plain調印の様子

ヴェルサイユ条約によってもたらされた国際秩序をヴェルサイユ体制が構築されオーストリアハンガリー帝国、オスマン帝国が解体されこれによりチェコスロヴァキアポーランドが独立するなど東ヨーロッパの独立が進みます。

1923年には対独姿勢のもとドイツの賠償金支払いの遅れを口実にベルギーとルール地方を占領します。

しかし占領したかと言っても利益をもたらしたわけではなくかえってドイツの反仏感情を高めただけでした。

しかし1920年代半ばにエリオ社会党内閣が成立し国際協調路線がとられ1925年にロカルノ条約によりドイツとフランス、ドイツとベルギーの国境を確定し相互不可とされました。

1928年にはアメリ国務長官ケロッグとフランス外相ブリアンが調整を行い戦争による問題解決を禁止したケロッグ・ブリアン条約が結ばれます。

これはヨーロッパ国内では国際連盟が約に立ってしないとブリアンが考えたからだと思われます。

大戦後の政治の流れとして政党とも言えないような政治団体がたくさん生まれ反革命主義的なシャルル・モーラスが中心となったアクションフランセーズという王党右派グループや反議会主義の愛国青年団1921年にはフランス共産党が作られます。

ヨーロッパ経済が落ち着いたのは1920年代の半ば頃ですが1929年十月に世界恐慌が起こってしまいます。

フランスはすぐには世界恐慌の影響を受けず1932年頃に影響を受け始めます。

なぜすぐに影響を受けなかったかというと他国は工業化を推し進めるうえで大企業に経済が依存していましたがフランスでは中小の企業が依然経済の中心におり、自己資本で回していたため金融業に対する依存が少なかったことやポワンカレによるフラン切り下げが効果あったと考えられます。

さらにフランスは工業化が緩やかであったため小作農が多く農業国でいたことも要因の一つと考えられます。

農業国を脱するのは1960年代です。

とはいえフランスの影響を受け始め直接の原因はイギリスが世界恐慌により1931年に金本位制をやめポンド兌換を停止しポンドを切り下げたことでした。

1933年にはアメリカも金本位制を止めています。

この影響により1935年を世界各国がとんでもなく悪い状況のなか迎えることになります。

1935年には税収が29年の三分の二になりドイツからの賠償金の支払いが停止し赤字が膨れることになりこのように経済が悪い中33年に現職大臣が詐欺事件に加担していたスタヴィスキー事件の発覚で安定していなかった政権がより不安定になりなります。

1932年にドイツでヒトラーが首相になったり1935年に再軍備宣言を行ったためイタリア・イギリス・フランスによるストレーザ戦線を結成するがイギリスがソ連牽制を狙い英独海軍協定を結んだため崩壊します。

国内では左派的な動きが盛んになり1936年に社共政権である人民戦線内閣が発足し首相にはレオン・ブルムが就任しました。

f:id:Fujisakiand:20200521160213j:plainレオン・ブルム

人民戦線とは反ファシズム、反恐慌、文化革命を目標としている内閣です。

労働協約と賃上げが主なマティニョン協定を締結し有給休暇法と団結協約法を制定し夏の長期の有給休暇(バカンス)が制度化されます。

一方ナチスでもこのような社会政策は行われていていました。

ドイツでは状況が悪いのはユダヤ人とし敵意を外部に向けて生存圏と呼ばれる安定して生存していくには必要な土地を東ヨーロッパに設定して進出していきます。

スペインではフランス同様1936年に人民戦線政府が作られていたが将軍フランコ北アフリカで挙兵し本国まで進軍して内戦が起こります。

ここでフランスが政府側として支援しようとするが相当な軍事支出があると考え正式には支援せず義勇軍を派兵する形で支援することになります。

しかしここでナチスとイタリアが参加してきたためスペインでは多くの被害を出します。この時1937年のゲルニカピカソが描いていて有名ですね。

スペインでは1939年にフランコが勝利し1975年に彼が死去するまで独裁体制が築かれます。

フランス国内では人民戦線と言いつつスペインに対して何もしないと民衆が怒り総辞職を余儀なくされ一応は人民戦線内閣が継続されますが短命に終わり1938年に第二次ブルム内閣で終わりを告げます。

1933年ドイツは国際連盟を脱退し136年にはヴェルサイユ条約を無視しラインラントの非武装地帯に進軍します。

38年にはオーストリアを併合、チェコスロヴァキアに対しドイツ人居住者が多いズデーテン地方の割譲を要求します。

ドイツの一連の行動に危機感を感じたイギリスのチェンバレンはドイツと対談することになりミュンヘン会談が開かれます。

この会談にはイギリス、フランス、ドイツ、イタリアの四か国で当事国のチェコスロヴァキアが不参加のなかミュンヘン協定が結ばれます。

ここではズデーテン地方の割譲が承認され今後のドイツの外交はイギリスとの相談の元決めることが約します。

これは西側諸国への進出は辞めさせようとする意図があると考えられます。

またドイツがある程度力を持つことでボリシェヴィキのロシアを牽制するためとも考えられます。

これによりソ連はフランスやイギリスに不信感を持ち独ソ不可侵条約を結ぶ事になります。

しかしドイツは1939年になるとイギリスの相談がないままチェコスロヴァキアを軍事占領しさらにリトアニアメーメル地方を割譲し、ポーランドには旧プロイセン領のダンツィヒを要求しポーランド占領を進めます。

二次世界大戦

 

ここでフランスやイギリスはポーランドを支援しドイツは1939823日に複雑怪奇な独ソ不可侵条約を結び91ポーランドに侵攻します。

第二次世界大戦の幕開けです。

フランスは92日に総動員令を発し北部国境沿いの第一次世界大戦の戦跡に要塞を置きマジノ線を敷くだけで進軍はしませんでした。

f:id:Fujisakiand:20200521160433j:plainマジノ線

半年間戦闘が生じなかったことから奇妙な戦争と当初呼ばれていました。

この作戦に今の戦争は戦車や戦闘機が主役となる戦争であり防衛線で待機して戦う第一次世界大戦のような戦争ではないとして反対したのが若き日のシャルル・ドゴールでした。

半年後の19405月になるとドイツが一転してフランスに攻めてきます。

半年間の間にドイツに進軍し東部戦線の戦力を分散させることも出来たはずなのにしなかったことは残念な話です。まぁ結果論ですが。

ドイツはマジノ線を迂回しフランスが突破不可能と考えていたアルデンヌ地方を戦車で侵攻し防衛線を崩壊させます。

この時にベルギーで防衛線を作っていたイギリス・フランス連合軍が撤退する場面がダンケルクからの撤退という映画で描かれています。

1940614パリはドイツに占領されます。

ドイツはフランス全土を占領するのではなく対イギリスのためパリを含む北部と大西洋沿岸を占領し残った土地はパリ陥落により崩壊した第三共和政の後に成立したペタン政権がドイツを支持するという条件のもと統治が委任されます。

この政府は拠点がヴィシーに置かれたことによりヴィシー政府と呼ばれフランス国の存続のためにアメリカやイギリスが国家として承認することになります。

ヴィシー政府は共和政を否定しペタンを国家主席として国家と家族の伝統を重視する政府でしたがここでも政府役員によるユダヤ人狩りが行われており事実上はナチスの政策に荷担していたことが窺えます。

ユダヤ

 

なぜユダヤ人が迫害されてしまったかというとユダヤ人はキリストを迫害し裏切った民族であるとキリスト教圏の国民ならだれもが知っているストーリーがあるため国家の状況が悪い時や歪んだナショナリズムのために仮想敵として標的になってしまうという説が俗説としてあります。

また中世の頃からユダヤ人は敵視され差別されており16世紀の作品でシェイクスピアベニスの商人では悪徳な金貸しとして描かれていています。

さらに当時はユダヤ人に土地を持つことが禁止されており金融業しかできなかったという認識がヨーロッパに共通認識としてありました。

さらにユダヤ人に金融業を押し付けていたことからもわかる通りかつてのヨーロッパの人々はお金を扱う仕事を貴ばない傾向でありました。

金融業で成功したユダヤ人を貧しい人々から見ると良くは思わなかったと推察されることも一つの要因として考えられます。

ただユダヤ人はどのように特定するのかが問題として出てきます。

ユダヤ人の国がないため国籍で判断することができず、19世紀になるとユダヤ教徒でもシナゴーグユダヤ教の教会)に行っていない人キリスト教徒だけど日曜礼拝に行かない人が出てきたため宗教実践で判断することも不可能でした。

ただユダヤ人という曖昧な枠組みは残り1894年にはドレフュス事件というユダヤ人が冤罪で捕まる事件が起こり開放すべきかユダヤ人の陰謀として捕まえるかで議論が分かれる事件も起こっています。

潜在的ユダヤの考えは残っておりヨーロッパでは今でも反ユダヤ的な事件が起こっていることを忘れてはいけません。

東南戦線

フランス領インドシナを経由する仏印ルートから蒋介石に支援を行っていましたがパリが陥落すると仏印ルートを閉鎖し日本の北部仏印進駐を開始します。

 ドゴールの台頭

 

フランスでは占領されても反ナチスドイツの戦いを繰り広げられ抵抗の動きは国内と海外で行われ国内ではレジスタンスとして海外ではロンドンに脱出していたシャルル・ドゴールが代表的です。

ドゴールは自由フランスを名乗りBBCラジオでフランス国内に向けてナチスとの戦いを続けることを放送します。

f:id:Fujisakiand:20200521161100j:plainドゴール

当時のシャルル・ドゴールは特に功績があったわけではないので放送を聞いた人は誰?と思った人も多くいたでしょう。

現にイギリスやアメリカはドゴールをあまり信用しておらず連合国としての会議に呼ばれませんでした。

それでもドゴールは植民地にいた兵力を着々と集め勢力を伸ばしていた。

レジスタンスは統一した運動は1943年からでそれまではナチスに対して不服従運動を行うことや武器をとって戦う人もおりバラバラで活動していました。

レジスタンス統一に尽力したのは県知事を務めていたジャン・ムーランという人物で42年に統一レジスタンス運動としてまとめ43年に全国抵抗評議会(CNR を創設します。

436月にアルジェリアフランス国民解放委員会を創設しフランス中央政府であると宣言し自由フランス軍と旧フランス軍を合流させフランス解放軍を組織します。

連合軍でも作戦が展開されまずシチリア島に侵攻、19449月イタリアが降伏、194466日(Ðayノルマンディー上陸作戦決行しドイツ軍が大きく後退することになります。

f:id:Fujisakiand:20200521161314j:plainオハマビーチに上陸する米軍

ドイツに対する連合軍の追撃には主に空爆を中心に展開しドイツ国内にまで空爆は及びます。1944825日にパリが解放され99日にドゴールがパリに帰還します。

ここで国のために戦ったレジスタンスには無視しており、これはレジスタンスが共産党との関わりがあったからだという理由が挙げられます。

パリで臨時政府が作られますが戦争は終わっていないため連合国はまだ正式な政府として認めていません。

ドゴールがまずしたことはドイツと協力していた企業、主に北の炭鉱や自動車企業への懲罰的国有化です。

ここでルノーが国営化になります。

共産党と結びつきが強い愛国民兵を解散し軍隊を正規軍に集約させ、またナチスから解放される上でナチスと関わりがあった人(政治的に関りがあった人だけでなく)が裁判による判決を経ずにリンチのような復讐行為を受け被害が約5000人に及びました。

臨時政府としてはヴィシー政府の要人を裁判にかけてピエール・ラヴァルが死刑に、ペタンは死刑を求刑されるも高齢だったので無期禁錮刑に処されます。

ちなみにフランス語ではナチスに対する協力をコラボラシオンと呼び1981年にヴィシー政府で働いていたこともあるミッテランが大統領に選出される際に「あいつコラボってるな」と言われたりします。

1945年に女性に選挙権が認められた初の国政選挙と国民投票を経て憲法制定国民会議の招集が決められドゴールが改めて臨時政府の首相となりますが1946年には首相を辞任します。

第四次共和制

 

新たな内閣のもと女性参政権を認めた憲法改正がなされ1013日の国民投票により認められます。

第四次共和制の始まりです。

戦争が終わったことにより経済が上向き日本の経済復興まではいきませんが急速に経済の立て直しが進みます。

1973年の第一次オイルショックまで続き栄光の30年と呼ばれます。

経済の国際協調が進められ1951年には西ドイツ・イタリア・フランス・ベネルクス三国で石炭と鉄鋼を共同管理する石炭鉄鋼共同体を作ります。

これはフランスの外相ロベール・シューマンにより進められたことからシューマン・プランと言います。

さらに1957年にはヨーロッパ共同体(EEC1958年にヨーロッパ原子力共同体を創設します。

石炭鉄鋼共同体とEEC、原子力共同体の総称

1963年にはエリゼ条約という独仏不可侵条約が結ばれています。

ヨーロッパで復興が進む中植民地でも独立運動が進みます。

フランス植民地だったベトナムではベトナム独立同盟1945年にホーチミンを大統領とするベトナム民主共和国の建国が宣言されます。

ここで反対するフランスは1946年にインドシナ戦争を始めます。

しかし54年のディエンビエンフーの戦いフランス軍が大敗することでフランス国内では戦争継続か独立承認かの国民投票を行い結果は独立承認となり1954年のジュネーブ極東平和会議によりベトナムの独立が承認されます。

また1954年にはアルジェリア独立戦争が起こります。

ここではアルジェリアは明らかな植民地でありますがフランスにとって県であるという認識だったためインドシナよりも独立戦争は過激化します。

ここでフランス軍は残酷な方法で拷問や処刑を行っているということをジャーナリストのアンリ・フレッグにより公表されたことにより国際的に批難を浴びます。

ここで問題解決に尽力したのが政界を引退していたシャルル・ドゴールでした。

第五次共和制

 

195861日にドゴール内閣が組閣され大統領の執行権を強め、議会を制限した第五共和政憲法10月に国民投票を経て公布され12月にはドゴールが大統領になります。

この第五共和制は現在も続いています。

ドゴールは1961年に国民投票をしてアルジェリアの独立が承認されます。

ここで現在の海外領土は海外県が5つ海外準県は4つその他では2つ存在しており現在も海軍を重視しています。

57年に作られたEECはドゴールが大統領でいる間はイギリスが参加しておらず69年に参加しますがこの時には大統領は変わっていました。

1993年にはEECが発展したEUUE)が発足し現在27国が加盟しています。

この第五次共和制は現在まで続きます。

 

 

 終わりに

フランス通史取り敢えずは最後までくることができました。

至らなかった点も多くあったため読みづらかったり中途半端な内容だったと思います。

しかし私としてはこの記事を作成する上でいろいろ調べる事ができたので満足です。

今後はこのフランス通史は時々編集していき情報を増やしてはいきたいと思います。

次はこの記事の反省点を踏まえてドイツ通史を計画しています。

                             では!