王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

フランスの通史⑨ 第二次帝政から大戦前夜(1852~1914)

こんにちは。愛知大学王室研究会代表です。

前回

 

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第二次帝政

内政


1852年には新しく1852年憲法を作り大統領任期を4年から10年延長し同年に帝位復活の国民選挙で圧倒的な票数でナポレオン3世として帝位につきます。

経済政策としては鉄道網を広げ51年から70年の間に約五倍にまで広げ1860年に関税を大幅にさげて主要国と自由貿易を進めようとし英仏通商条約を締結します。

これを契機にフランスはベルギーやプロイセン、イギリス、イタリアとも同様の条約を結ぶことで自由貿易を進める事になります。

社会保障の面は不十分で英仏の労働者を中心とする第一インターナショナルが結成されました。

ナポレオンの政治姿勢は前期と後期に分かれ1850年代は権威帝政として強い行政権のもと政治を進め1860年代からは自由帝政として議会で自分たちの意見を発言することが認められ、団結権ストライキ権も合法となり出版や集会の事前申告制が廃止します。

 

外政

インドシナの侵略を本格化させコーチシナベトナム南部)を直轄植民地とし、カンボジア、アフリカのマダガスカル島保護国化しアフリカ大陸の侵略を進ます。

メキシコがヨーロッパ諸国の債務の不履行を命じたことからイギリス、スペインとともにメキシコ出兵(1861~1863)を行います。

イギリス、スペインは早期に離脱しますがフランスは残り、メキシコシティに入り傀儡のメキシコ帝国(1864~67)を建国します。

オーストラリア皇帝のヨーゼフ1世の弟マクシミリアーノが帝位につくがアメリカが介入することで撤退を余儀なくされ帝国が消滅しナポレオンの権威が落ちます。

f:id:Fujisakiand:20200516160359j:plainマクシミリアーノの処刑

1870年スペインで王位継承問題が起こり候補にプロイセン王のヴェルヘルム1世の甥のレオポルトが挙がったことでフランスが猛反対します。

オポルト本人は王位につかないことを示していた。

しかしレオポルトが継承しないことを確認するためにヴェルヘルム1世のもとに来ていたフランス大使のべネデッティの行動内容をプロイセンの宰相ビスマルクが捏造し各国に公表します。(エムス電報事件

これにより両国で戦争の意見が大きくなってしまい戦争が避けられなく普仏戦争が起こってしまいます。

ただプロイセンを支持するドイツの諸国も多くいたため普仏戦争ではなく独仏戦争とも書かれている本も多いです。

フランスは完敗しナポレオン3世セダンの戦いで捕虜にされます。

f:id:Fujisakiand:20200516160709j:plainセダンの戦い

帝政の崩壊

 

捕虜にされたと聞いた市民はパリで蜂起し共和制の臨時政府が作られます。
国防政府として臨時政府は戦うことになりますが志願兵(国民衛兵)では勝てるはずもなくパリは包囲されてしまいます。

パリ攻防戦の最中の1871年ヴェルサイユ宮殿の鏡の間にてヴェルヘルム1世のドイツ皇帝の戴冠式が行われるという屈辱的なことがあります。

f:id:Fujisakiand:20200516160805j:plainヴェルヘルム1世の戴冠

フランス南部のボルドーで選挙を経た議会が誕生しますが政権は意外や王党派が持つことになり一か月後条約が結ばれます。

これは多額の賠償金とアルザスの大半とロレーヌの一部が割譲される厳しいものでした。

新政府の中心人物のティエールは正式に講和を結んだため徹底抗戦を主張している市民や国民衛兵を武装解除しなければならなく国民衛兵が設置した武装を隠れて撤去していると、国民衛兵に気づかれてしまい武力で抵抗し政府をヴェルサイユに追い出し無政府状態となったパリでコミューン議会(パリ市議会)の選挙を実施しコミューンの設立が宣言されます。

その後ヴェルサイユに追い出された政府は軍を再編しパリに進軍し血の一週間と呼ばれるほど壊滅的な被害がコミューン側に起こります。


第三次共和政(1870~1940)


そしてティエールが大統領に選出され第三次共和制が始まります。

王党派がシャンボール伯アンリ(シャルル10世の孫)をアンリ5世として王に立てようとしますが三色旗を受け入れるときにアンリが拒否したため王政復古の最大の好機を失うことがありました。

1880年に現在の国歌と国旗が成立し7月14日が祝日として成立しパリ祭が成立し1881年には初等教育の無償化をすすめジュール・フェリー法が成立します。

またフェリーにより言論や出版の自由が保障され政教分離が進みます。

後述のドレフィス事件のような事件も含めこの時代からフランス民族の血統主義ナショナリズムの考えが強くなり始めます。

移民問題やロシアでユダヤ人が弾圧されるポグロムが行われ、移民労働者人口が増えたこともナショナリズムの基調が高まった理由の一つであると考えます。

植民地政策として首相のジュール・フェリーが1881年チュニジア保護国化し西アフリカへの侵攻を進め87年にはアジアでフランス領インドシナ連邦が設立します。

1895年にルノープジョーが自動車生産を進めミシュランが自動車用のタイヤを生産が開始します。

f:id:Fujisakiand:20200516161016j:plainビバンダム

ちなみにミシュランガイドは自動車や自転車で旅をする人のために自社製品としてガイドブックを作ったことが始まりです。

1889年にフランス革命100年祭としてパリ万博が開催されエッフェル塔や地下鉄を作ります。

文化面でもシャーロックホームズやルパンが大衆小説として発展しこの時代から第一次世界大戦までをベルエポック(良い時代)と呼ばれることになります。

f:id:Fujisakiand:20200516161257j:plain1900年代のパリ

第一次世界大戦がはじまる前の世界情勢は1871年以降ドイツのビスマルクが主導となりフランスを孤立される政策をとります。

1881年にドイツはオーストリアとロシアと手を組み三帝協商を結ぶことや1882年にオーストリアとイタリアと三国協商を結ぶことになります。

ここでヴェルヘルム1世が死去したことによりヴェルヘルム2世が帝位につくことで政策が変更しビスマルクを解任し対外強硬路線に走ることになります。

ヴェルヘルム二世により建艦が進められイギリスとの関係が悪化するもドイツはそのことに危機感をもっていなかったようです。

こうしたドイツに対抗するために1894年にフランスはロシアと露仏同盟を締結します。イギリスとフランスは1898年にフランスのアフリカ大陸横断作戦とイギリスのアフリカ大陸縦断作戦がぶつかりファショダ事件が起こるなど植民地問題があり対立しますが1904年に英仏協商が締結しアフリカ大陸はイギリスとフランスの二国で分割しその他の国の勢力を排除しようと決定します。

ドイツにとって誤算だったのは1907年にイギリスがロシアと英露同盟が締結されたことでかえってドイツの外交的孤立が強まります。

きな臭い国際情勢一方で1907年にロシアのニコライ2世によりハーグ平和会議を開催して赤十字活動の容認や毒ガスやダムダム弾の禁止など後の戦時国際法の法典化につながる条約が結ばれます。

しかしオーストリアバルカン半島をめぐりロシアと対立していましたが三帝協商を結んだことにより均衡が保たれていました。

しかしドイツが対外強硬路線をとりオーストリアも1908年にボスニアヘルツェゴビナを併合し再び緊張関係が生じることになります。

これはオーストリアとともにゲルマン民族優位性を説くパンゲルマン主義のもとゲルマン民族による国家と世界制覇を狙うナショナリズムが高まったためです。

一方ロシアでは同じギリシャ正教を信仰する人を守るという名目でスラブ系民族の統一・独立を目指すパンスラブ主義を支持しドイツとオーストリアに対立します。

日露戦争によりロシアの南下政策を転換しバルカン半島進出に注力し始めたことも原因の一つです。

このヨーロッパの火薬庫と呼ばれたバルカン半島では第一次世界大戦前にオスマン帝国がこの地に干渉することから何度かバルカン戦争が起こっています。

 

 

 

今回はここまで この時代は良くも悪くもドイツが主役のような気がします。

次回最終回です。