王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

フランスの通史⑧ 第一次帝政から第二次共和制(1804~1852)

こんにちは。愛知大学王室研究会代表です。

今回はナポレオンから第二次共和制までです。

前回

 

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第一次帝政(1804~1814(1815))


1804年ナポレオンは国会と国民投票により皇帝にフランス人民の皇帝として戴冠式が行われます。

f:id:Fujisakiand:20200511164354j:plain戴冠式のナポレオン

これもローマ帝国アウグストゥスに似ていますね。

この戴冠式では自ら冠を被ることで教会権力が自分よりも下であることをアピールしました。

1805年イギリス上陸を目指して兵を招集していることを聞いたイギリスはオーストリア、ロシアなどと第三次対仏大同盟を結成します。

1805年トラファルガーの海戦でフランスが負けたことで大陸内の戦線拡大を進めることになります。

フランスとロシア・オーストリア軍で三帝会戦が行われフランスが完勝します。

三帝とはロシアはアレクサンドル1世、オーストリアはフランツ1世です。

ここでオーストリアとプレスブルク条約が結ばれ第三次対仏大同盟が崩壊エトワール凱旋門はこの時の記念として作られました。

f:id:Fujisakiand:20200511164733j:plainエトワールとナポレオンの帰還

1806年またアレクサンドル1世はイギリスと手を組みプロイセンが中心となって第四次対仏大同盟を結成しましたが一方フランスはベルリンを占領し兄のジョゼフをナポリ王に、弟ルイをオランダ王としました(ライン同盟)。

これによりフランツ2世は神聖ローマ皇帝の位から退きオーストリア皇帝のみとなったため名実ともに神聖ローマ帝国が消滅することになります。

ベルリンに侵攻した時にフランスの敵がイングランドのみとなったため大陸封鎖令を出し、イングランドに対する貿易を大陸の諸国に禁止しました。

オランダのルイが大陸封鎖令や徴兵令に反対したためナポレオンはルイを廃位しオランダをフランス帝国に併合しています。

イベリア半島にも進軍をはじめますがスペインのゲリラ戦を強いられる事になりイベリア半島に軍を常駐しなければならなくなります。

ジョゼフィーヌとの間に継嗣が誕生しなかったことからジョゼフィーヌとは離縁しオーストリア皇帝フランツ2世の娘であるマリー・ルイーズと婚約しナポレオン2世が誕生します。

大陸封鎖令にはプロイセンやロシアが反対している状況でナポレオンは大陸封鎖令を守っていないロシアに遠征します(1812年)。

f:id:Fujisakiand:20200511165038j:plain退却するナポレオン

しかしロシアの冬将軍とコサック部隊によりフランスが負けることで反ナポレオンの動きが高まり、第六次対仏大同盟を結成し、1814年にはパリが陥落されます(解放戦争)。

マルモン元帥らによる反乱(将軍連の乱)などの国内での反乱も重なりナポレオンは帝位を退きフォンテーヌブロー条約によりエルバ島の小領主として追放されます。


王政復古(1814~1848)

ナポレオンの再登場


ナポレオン廃位後はブルボン家を復帰させイタリアに亡命していたルイ16世の弟のルイ18世(1814~24)が王位につきます。

ナポレオンの失脚後のヨーロッパの後始末として反革命のウイーン体制をヨーロッパに敷くべくウイーン会議が開かれますが「会議は踊る、されど進まず」の言葉が示すように会議は難航します。

そうした中ナポレオンはエルバ島を脱出しパリへ侵攻します。

この侵攻の最中に兵力や民間の信頼を得てパリへ着いたときには市民の歓声のもと迎えられました。

なぜ信頼を得たかというと帝位を廃止すること自体同盟国側に忖度した結果であるという認識が市民や軍人のなかであったためであると考えます。

再び帝位を取り戻し対仏連合軍と戦うことになりますがワーテルローの戦いで負け再びルイ18世が王位につき、ナポレオンの復位(百日天下)が終わりセントヘレナ島に幽閉されることになります。

f:id:Fujisakiand:20200511165116j:plainセントヘレナ島のナポレオン

ルイ18世が登場しますがルイ17世はいるのかという疑問が生じます。

これはルイ16世が処刑された後に王党派によりルイ16世の息子がルイ17世として王位についていたとされているためです。

1814年憲章により議会が世襲族議員からなる貴族院高額納税者から選ばれた下院による二院制による立憲君主制が始まります。

シャルル10世


ルイ18世の弟のシャルル10世(1824~30)が王位につき、政治体制は極端な絶対王政に戻そうとする反動政治を進め、さらに1830年にはアルジェリア侵攻を開始します。アルジェリア侵攻は7月王政期まで引き継がれます。

ここで七月勅令による選挙権の縮小によりこれに反対した勢力が七月革命を起こしシャルル10世は退位させられました。

f:id:Fujisakiand:20200511165232j:plain七月革命をテーマにした絵

ルイ・フィリップ七月王政

 

シャルル10世が退位したことでブルボン家が断絶しルイ14世の弟の血筋のルイ・フィリップ(1830~1848)(オルレアン朝)が王位につきます。

f:id:Fujisakiand:20200511165637j:plainルイ・フィリップ

シャルル10世はフランス国王のなかで唯一国内で埋葬されていません。

1830年憲章に基づき責任内閣制として成立し産業革命をもたらしましたが実情はオートブルジョアジーと呼ばれるように資本家や銀行家を中心とした政治でした。

 

1832年リヨンとサンテティエンヌを結ぶ鉄道が開通し1837年にパリとヴェルサイユを結ぶ鉄道が開通、1842年には鉄道法が成立しロスチャイルド家により北部鉄道会社を下に鉄道網の広め産業革命の基礎を作ります(本格的な産業革命は2帝政)。

工業化が進むことで生活環境の悪化や都市に人口集中が起こり国政に対する不満が出てきてくるが政府の対応も荒く、集会の禁止を命じる法令を発布されことやこの頃の作物の不況によりプロレタリアートという賃金労働階級により暴動が起こり始めます。

これは今まではブルジョア主体の革命だったのに対して変容していることがわかります。

対外政策としては1834年アルジェリアの併合を始めフランス帝国主義政策の足掛かりを作りました。


第二次共和政(1848~1852)


1848年にパリで暴動が起こったため鎮圧を命じられた兵が招集しなかったことから国王はロンドンへ避難しフランスでは王位を廃し臨時政府が作られ第二次共和政が始まります(二月革命)。

f:id:Fujisakiand:20200511165736j:plain二月革命

この革命により労働権生活権を保障するために社会主義者であるルイ・ブランとアルベールを政治に参画させ労働者のための政府委員会リュクサンブール委員会と失業者救済のため国立作業場(アトリエ・ナショナル)を創設します。

1848年にはヨーロッパ各地で民衆の蜂起があったことから総称して1848年革命と呼ばれ保守的だったウイーン体制の崩壊を意味します。

第二次共和制ではフランスでは男性のみ対象の普通選挙を行い保守派が政権を担うことになります。

この政権内で財政を逼迫していた国立作業所を廃止することで反感を買い6月蜂起がおこります。

この蜂起は甚大な被害を出し失敗に終わります。

政府は1848年憲法に則り大統領選挙を国民選挙により決めることになりますがここである亡命者が再び歴史の表舞台に立とうとします。

なんとナポレオンの甥(弟ルイの子)ルイ・ナポレオンが大統領として同年12月に選出されます。

f:id:Fujisakiand:20200511165902j:plainルイ・ナポレオン

なぜ選出されたかというとこれもナポレオンの功績によりナポレオンが国民から愛されていたことが選出される大きな要因にありました。

実は二月革命に乗じてパリに入り同年の六月には一度議員になっています。

また六月蜂起で共和国を支配するブルジョアに憎しみを抱き12月の大統領選挙まで一時軍事独裁政権を樹立しておりプロレタリアートにとって共和制に対する信用がなくなります。

このような背景があったためその他の立候補が得票数を伸ばせなかったのも当選の理由としてあげられます。

1851年議会が左翼を牽制するために選挙権取得するための定住期間を半年から三年にかえる法令を出し、これによりパリの労働者の4割が選挙権を失ったためナポレオンはクーデターを起こし議会を解散させることに成功します。

 

 

今回はここまで