王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

フランスの通史⑦ フランス革命と第一次共和制(1789~1804)

こんにちは。愛知大学王室研究会代表です。

今回はフランス革命から統領政府までです。

前回

 

oushitsukennkyu.hatenablog.jp

 

 

 

フランス革命

革命前夜


ルイ16世は1789年に財政危機を脱するべく全国三部会を開きます。

ここで議決方法で身分ごとに議決を分けることを特権階級は指示したため問題となります。

これにより第三身分の代表者は三部会に見切りをつけてシェイエスのもとで国民議会を作ることになります。

ここでの憲法制定まで集会を続けることを誓うテニスコートの誓いが有名です。

f:id:Fujisakiand:20200508223112j:plainテニスコートの誓い

その後第1や第2身分からも国民議会に参加する人が出てきたため国王は議会の名称を憲法制定国民議会として正式に認めました。

ここでシェイエスは革命最初のリーダーとして活躍します。

革命の始まり

 

しかし国民的に人気があった財務長官のジャック・ネッケルが罷免され、さらに軍隊がパリを占領しようという噂が流れ、ここで市民はバスティーユ牢獄を襲撃します(1789年7月14日)。

f:id:Fujisakiand:20200508223219j:plainバスティーユ牢獄

軍事司令官ド・ローネーらを市庁舎前の広場にて殺害し市長のフレッセルも殺害します。

ここでは新しい市長を置いていることから政治体制は守る方針でした。

15日には国王は軍隊の撤退を命じ、市民軍は国民衛兵と称し現在の国旗をシンボルとしました。

これはパリ市のエンブレムである赤と青にブルボン家の白を挟んだものであることからこの時点では国王廃位の目標はなかったと推察されます。

ここらから暴動は各地に広がり混乱を収めるべく封建制度の廃止を採決することになりこれは土地を領主から買えて自由になることを指します。

実際は領主から土地を買えたのはごく一部でした。

8月26日に人権宣言が採択され、ここでの人権は発言や宗教、行動、所有の自由が認められることでした。

しかし国王の裁可がされていなかったため効力が発生していなかった期間が生じてしまいそんな中パリに軍隊が集結していることを聞いた市民が国王に革命が賛成かどうか審議を問うべく宮殿をパリに移す計画がすすみます。

ここで以前からの食糧不足を訴えるために市民(多くは女性)が宮殿まで「ヴェルサイユ行進」を行い、国王をパリのテュイルリー宮殿に連行、封建制度の廃止と人権宣言を容認させました。

f:id:Fujisakiand:20200508223654j:plainテュイルリー宮殿

さらに1789年10月から憲法関連の法令には国王の裁可は不要としました。

また独立性の強い州を廃してをおくこととし権力の一元化を進めます。

協会財産の国有化も進め、十分の一税をなくすことに成功します。

十分の一税とは教会が信徒の道徳的義務として収入の十分の一を納入することが推奨されピピン三世の時に本格的に導入されますが段々と俗人による徴税がなされ本来の聖職者の生計維持の目的とはかけ離れていきました。

聖職者市民法が聖職者にもフランス市民として自覚を持ち革命に尽力させるため成立します。

1790年7月14日にバスティーユ牢獄襲撃から一周年として連盟祭を行いここで国民の前で国王は憲法(人権宣言)遵守を誓います。

しかし1791年国王のオーストリアに亡命未遂が起こります(ヴァレンヌ事件)。これは国王への信用をなくす決定的な事件でした。

f:id:Fujisakiand:20200508223811p:plain連れ戻されるルイ16世

1791年憲法が成立し納税額による制限付きの選挙権が記載されて新しい議会立法議会が成立し、ここでは前の憲法制定国民議会の議員には被選挙権がなかったことが興味深いです。

この議会で立憲君主制を守るフイヤン派と共和制を主張するジロンド派で別れました。

1792年革命を維持するためにオーストリアに宣戦布告します(フランス革命戦争)。

なぜ革命戦争したかというと革命が自国にまで広がることを恐れる他国が革命の波が自国に来ないうちに大元をつぶしてしまおうとした行動をあらかじめつぶしておこうとしたためです。

だが革命前の軍の多くは亡命したため軍は瓦解状態で主軸は連盟軍という志願兵で戦うことになり、ここでマルセイユ義勇軍が歌っていたのがラ・マルセイエーズで現在の国歌となりました。

志願兵というのもありフランスが負けているとフランスが負けているのは国王が敵国に内通者しているからだとしてテュイルリー宮殿を襲い王権を停止し一家をタンプル塔に幽閉(8月10日事件(革命))することになります。

f:id:Fujisakiand:20200508224056j:plain8月10日事件

また急進派ながらジロンド内閣の司法大臣を務めていたダントンの演説により9月2日から反革命狩りが行われます(九月虐殺)。

ダントンは「勇気が、常に勇気が、さらに勇気である」で知られる剛胆演説が有名です。

フランス軍ヴァルミーの戦いで反攻に転じ敵軍を国外へ追い出すことに成功します。この過程で義勇軍に参加した下層市民(サン・キュロットの発言力が強くなります。またサン・キュロットは左派でありジロンド派よりもさらに急進派のジャコバン派を支持していました。

また1792年に王権を元に作られた立法議会がなくなり国民公会へ変わりますが主導はジロンド派となります。

この国民公会は納税額を問わずすべての男性に選挙権が付与される普通選挙で議員が選ばれました。

第一次共和制

ジャコバン


1792年に王政を廃し共和制を宣言(第一次共和制)し1793年裁判により若干の僅差の中死刑が決定し国民公会コンコルド広場にてルイ16世とマリーアントワネットを処刑することになります。

f:id:Fujisakiand:20200508224203j:plainルイ16世

国王処刑によりイギリスやスペイン、サルデーニャ反革命を訴え第一次対仏大同盟を結成します。

これに対して1793年30万人の徴兵をフランスはすることになりますが農村で徴兵に反対するヴァンデの反乱がおこります。

これは各地では教会の力が依然として強くまたパリでの革命を十分に理解していない中で大規模な徴兵が行われたので反乱が起こりました。

封建制を廃止したが恩恵をあまり受けていなかったこともあり地方ではフランスという国民国家としての自覚がなかったことも理由として挙げられます。

政府は保安委員会を設立しさらに臨時的に独裁的な権力が付与される公安員会ダントンをリーダーとして設立させます。

f:id:Fujisakiand:20200508224348j:plainダントン

ここでジャコバン派ロベスピエールら過激左派はジロンド派に圧力を加え権力を掌握すると農民に対する土地の無償配分や独立小生産者による共和制を目指すことになります。

ロベスピエールはヴァンデの反乱や革命戦争の敗北が続く中で反革命勢力に対抗すべく恐怖政治を導入します。

ここでダントンらのジャコバン派の内部に対しても粛清を進めます。

1793年18歳から25歳の未婚男性と子供のいない寡夫の入隊を義務化した総動員令が発布し同年に93年憲法ジャコバン憲法は戦争終結まで延期され賃金統制を盛り込んだ総価格統制令を出し革命戦争に注力します。

ジャコバン憲法は最終的に施行されませんでした。

戦争中にも反対勢力に対する粛清が続けられジロンド派やダントンを処刑することになり恐怖政治がすすめられるがここで西欧初の植民地を含めた奴隷制廃止といった徳による政治も行いましたが恐怖の面が大きく1794年テルミドールのクーデターが起こりロベスピエールら処刑されます。

f:id:Fujisakiand:20200508224449j:plainロベスピエール

総裁政府、総領政府

 

テルミドールとは1793年にグレゴリウス暦(西暦)ではなく1792年9月を共和1年とする共和暦を始めていました。

国民公会は1795年に修正された憲法のもと総裁政府として再編され、5人の総裁を置く体制が築かれて総裁政府で中心となったのがポール・バラスに代表されるテルミドールです。

彼らが自党に有利になる法律(3分の2法)により1796年王党派が革命派を襲撃(白色テロ)(ヴァンデミエールの反乱)が起こりますがこの反乱を抑えたのがナポレオンでありその功績により国内軍司令官に抜擢されます。

ナポレオンは革命戦争におけるトゥーロン攻囲戦イタリア遠征(1796年)で有名になっていました。

対イギリス戦略としてエジプト遠征に乗り出し東地中海を抑えインドとの交易路を遮断することを目標とするもイギリスとの戦争で制海権を取られたため長期化しイギリスは第二次対仏大同盟を結成しています。

f:id:Fujisakiand:20200508224759j:plainイタリア遠征の際アルプス山脈を越えるナポレオン

ここでシェイエスが総裁政府ではうまく国難に対処できないとしてクーデターを起こしたためナポレオンは軍をエジプトに置いたままパリへ帰還しこのクーデターで総裁政府は否定され三人のコンスル(執行官)のもと元老院が設立される統領政府が作られます。

これはコンスルという言葉からもわかる通り共和制ローマの制度に似せていることがわかります。

初代コンスルナポレオン、カンバセレス、ルブランが任命され、1802年にはナポレオンは投票により終身コンスルになります。

イタリアの再奪還のためオーストリアと戦うことになり北イタリアをフランスの保護国としました。

イギリスアミアン条約により和平が成立し1801年にはピウス7世と密約を交わしカトリック教会を公認制としました(公務員的な扱い、また他宗派、宗教に対しても公認)。

教育体制の確立を目指すが初等教育に関してはまだ協会によるものでしたが中等教育ではある程度の成功を見せフランス公立高校「リセ」が生まれます。

ナポレオン法典の公布(1804年)も功績として有名であり私的財産権の保障や離婚の自由などが盛り込まれたものだったが近代の家父長制が強いものでした。経済面ではフランス銀行を設立しインフラと工業を進める一方植民地では奴隷制が復活させています。

 

今回はここまで