王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

フランスの通史⑥ ブルボン朝(1589~1792)

こんにちは。愛知大学王室研究会代表です。

今回はブルボン朝です。

 

 

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 アンリ4世


プロテスタントを支持するナバラ王アンリ4世(1589~1610)が王位につきブルボン朝が始まります(母がフランソワ1世の姪)。

f:id:Fujisakiand:20200505170306j:plainアンリ4世

 

カトリック派であるギース公の弟マイエンヌ公はシャルル10世と称して戦いが始まりどちらも決め手に欠ける戦いの中アンリはなんとカトリックに改宗します。

これはこれ以上内乱が続けばフランス統治ができなくなると考えたためです。

シャルトル大聖堂で正式に戴冠式を行うことになります。

1598年ナント勅令によりカトリックを国教に指定プロテスタントにも多くの制約があるものの信仰の自由を認めることでユグノー勢力を抑えます。

またルーブル宮殿のギャラリーやポンヌフ橋を造ります(パリで現存する最古の橋)。

また税の支払いに応じて世襲を保証するポーレット法を定めます。

アンリ4世は北アメリカの探検にサミュエル・ド・シャンプランを派遣することでカナダにフランスの植民地が築かれるもとになります。

その後ナント勅令に反対する狂信的なカトリック信者ジャン・シャテル(八つ裂き)による暗殺未遂が起こり、カトリック信者のフランソワ・ラヴァイヤック(八つ裂き)により暗殺されてしまいます。

ルイ13世


次のルイ13世(1610~1643)が王位につきます。

ルイ13世リシュリューを宰相に登用し絶対王政の最初の人となります。

f:id:Fujisakiand:20200505171521j:plainリシュリュー

1628年ユグノーの本拠地ラ・ロシェルを陥落させてラ・ロシェル和議によりユグノーに対する政治的、軍事的特権を撤廃させました。

これはナント勅令によりユグノーは集団で拠点を作ることを禁止していたことに目をつけて進軍しました。

封建貴族を抑制するために国防以外の城の破却を命じ、地方長官の設置により国王王権を強化しました。

ルイ14世

マザランフロンドの乱

f:id:Fujisakiand:20200505171636j:plainルイ14世
ルイ14世(1643~1715)が王位につきますが母のアンヌ・ド・ドートゥリシュが摂政になり、マザランが宰相となり実権を持ちます。

30年戦争で戦況が優位であることからアルザス地方を獲得し、神聖ローマ帝国の分裂を決定づけます。

ハプスブルク家の弱体化にも成功するも国内では戦費調達のため重税が課せられることになり和平交渉が大詰めの頃に1648年フロンドの乱がおこります。

これはまず17世紀が農業的に不作の年であることが背景にありさらにルイ13世の時にポーレット法を廃止したことにより官職を売買することができるようになり第三身分のブルジョアが新たな貴族として誕生していました。

この新しい貴族を法服貴族といい、反対に従来の貴族を武家貴族といいます。

1648年に増税のための王令を認めるように高等法院に提出され、いったんは拒否されるが王が自ら法院に出向き理由を説明すれば承認しなければならないのが決まりであったため認められてしまいます。

これに反対する批判演説が広がり対抗するためマザランは官職保有者に対して俸給を4年間停止することを決め、これにまた対抗してパリ高等法院と会計院、租税院、大法院が共同して地方長官の廃止とタイユ税(直接税)の減免を求めました。

この地方長官は地方を直接統治するための役職だが以前にも同じような職をする役所を設置しているため二重支配の状態が生じていました。

これに対してマザランは最高法院のブルセルを逮捕し、これでフロイドの乱がおこります。

パリ市民がワインの樽でバリケードを設置し蜂起しました。これがバリケードの語源になります。

30年戦争をしていたフランス兵が戻ったことで一時終結しましたが、乱鎮圧の功績者コンデ公とマザランが対立して再び反乱が起こります。

ルイ14世が成人になったことでフロンドが分裂し乱が収束します。

この乱の最中に高等法院でルイ14世は有名な「朕は国家なり」と言ったそうです。

親政

1661年マザランが死亡するとルイ14世の親政が開始し今後宰相は置かないこととしました。

さらに大貴族の権威を低下させ新興貴族とブルジョア階層の登用で王権を強化させ、ブルジョアコルベールを財務総督に任命します。

コルベールの重商主義により貿易差益により財政を安定化させようとし、南アジアを対象とする東インド会社そしてカリブ海を対象とした西インド会社を設立します。

30年戦争やスペインとの戦いでスペインは弱体化が進んでおりルイ14世はフランス王権を中心としたヨーロッパ体制を計画しておりその障害は貿易で富を得ていたオランダであった。

ルイ14世の最初の戦争はスペイン領の南ネーテルランドの戦争(フランドル戦争(帰属戦争))を王妃の血筋を理由に起こします。

f:id:Fujisakiand:20200507154006j:plain帰属戦争

オランダはフランスの侵攻を恐れたため、イギリスとの戦争を中断しスウェーデンとともに三国同盟を結び抵抗します。

アーヘン条約によりフランドル地方の12都市を確保したがフランシュはスペインに返還しこれはフランス側としては不満がある結果でした。

しかしイギリスとはすぐに和解して次の仏蘭戦争を起こします。

1672年イギリスとフランス連合軍は仏蘭戦争を起こしオランダは名将デ・ロイテルのもと海軍は優勢だが陸軍が弱い戦況で最初はオランダ優勢だったがイギリスの撤退しフランスはオランダの首都アムステルダムではなくフランシュを攻めてナイメーヘン条約を結びます。これでフランシュ=コンテ領の一部をもらうことになります。

1681年にはアルザス地方のストラスブールを占領しします。

1683年スペインと戦争(再統合戦争)によりルクセンブルクを獲得します。

1680年代がルイ14世の最盛期であり、1681年ヴェルサイユ宮殿の造営には建築家のル・ヴォ―、造園家のル・ノートル、画家・装飾化のシャルル・ルブランが任されました。1678年にはマンサールが鏡の間、大使たちの階段を作り、1682年には正式に王宮をヴェルサイユに移します。

負傷したり老齢化した将校のためにオテル・デ・ザンヴァリッドや、精神病患者や犯罪者に対しての病院の建造を進めます。

フランス語辞典が出版されフランス語の言語統一を進めます。

1683年に王妃のマリー・テレーズが死去したことによりマントノン公爵夫人と秘密結婚をし、マントノン公爵夫人が政治的権力をもちます。またガリカニズムの考えからローマ教皇と結びつきを強める方針に変更し、厳格主義信仰運動をはじめユグノーを官職から締め出し兵士をユグノーの家に送り込み改宗を迫ることをしました(竜騎兵の迫害)。

f:id:Fujisakiand:20200507154411j:plain竜騎士の迫害

1685年にはナント勅令を廃しプロテスタントの礼拝を禁止し改宗に応じない牧師の国外追放を命じたフォンテーヌブロー勅令を発布します。

これの反発によりユグノーの亡命やカミザールの乱がおこってしまいます。

この政策に対して国外からは非難を浴びたが国民からは称賛されます。

この判断にはマントノン公爵夫人の影響か王の義妹プファルツ公女の影響があるという説があります。これにより経済の低下が起こってしまいます。

なぜかというとプロテスタントの支持母体には商業を生業としている人が多くいたためです。

プファルツにおける継承問題に干渉しプファルツにも侵攻し都市を焦土化しました(プファルツ略奪)。

またフランスがオランダに対して宣戦布告をしたことにより神聖ローマ帝国はフランスに対して宣戦布告します。

さらにイギリスでカトリック信仰復活を図っていた身内のジェームズ2世が追放されていたためフランスはジェームズ2世の王位を承認しようとします。

しかしこれに反対してイギリス、オランダ、スペイン、神聖ローマ帝国スウェーデンの対仏大同盟(アウクスブルク同盟、大同盟)が成立されます。

大同盟戦争は大陸では神聖ローマ帝国が東部で大トルコ戦争も継続していたためフランスが優位でしたがラ・オーグの海戦で制海権をとられ長期化し最終的にフランス優位のままレイスウェイク条約が結ばれ終結します。

f:id:Fujisakiand:20200507154841j:plain海戦

これによりルクセンブルクの放棄、イングランド王位がウィリアム3世メアリー2世であることが承認されました。

これもフランスにとって不満が残る結果となりした。

スペイン・ハプスブルク家がカルロス2世により断絶してしまいここでルイ14世の孫のフィリップかオーストリアハプスブルク家のカール6世が候補に挙がり、イギリスとオランダで対仏同盟を作り戦争(スペイン継承戦争)が起こります。

規模は大きく北アメリカ大陸でもアン女王戦争が起こります。

この結果イギリスとはユトレヒト条約オーストリアとはラシュタット条約を結び、これによりフェリペ5世(フランス系、スペイン・ブルボン家の最初の王ルイ14世の孫)のスペイン王位とアメリカ大陸の領有ネーテルランド、北イタリア、ナポリサルデーニャのスペイン領はオーストリアへ帰属することになります。

度重なる戦争で国王に対する信用を無くしスペイン継承戦争の一年後にルイ14世が死亡した際には歓喜したそうです。

しかし遺言では子孫に対して戦争はするなと訓戒しているという一面もあります。

社会面ではルイ14世はバレエが好きであったことから現在にも続くダンサーの年金制度もはじめ、また太陽王の異名もバレエからもきています。

ここで注意しておきたいのは絶対王政期でも税制は各州の貴族の同意のもと行われたことがありまだ家産意識が残っています。

特に独自に三部会を持つような地区には往々にして地元貴族の力が強いため税をとらないこともしました。

つまり絶対王政とは諸法の規制が及ばないことを指すが国家の慣習までも逆らうことはできませんでした。

ルイ15世


ルイ15世(1715~1774)が王位につきます。

f:id:Fujisakiand:20200507155005j:plainルイ15世

ルイ14世の孫だがルイ14世の息子はルイ14世が長生きだったため息子に先立たれていました。

ジョンローを財務総監に任命しフランス初の紙幣を発行し北アメリカ大陸で開発事業を進めるがバブルが起こり多くの貴族が破産することになります(ミシシッピ計画)。

オルレアン公が死去するとき13歳で元服し、フルーリー事実上の宰相としました。フルーリーが死去する1743年までルイ15世で最も平和で繁栄した時代でした。

1733年ポーランド継承戦争に干渉し、これによりロレーヌ地方を割譲します(ブルボン朝における最大領土)。

フルーリーの死後ポンパドゥール夫人が政治に介入することになってから再び権力闘争が始まります。

1740年ハプスブルク家のカール6世が亡くなることから娘のマリア・テレジア家督相続をすることになり、これに対して女性が家督を継ぐことに異議をとなえオーストリア継承戦争が起こります。

ここでは最初にプロイセンとフランス、スペインが協力関係になりイギリスとオーストリアが協力関係になるがエクス・ラ・シャペル条約により元ロレーヌ公フランソアの帝位を認めネーテルランドの占領地を返還する利益がない条約を結ぶことになります。

戦費回収のため教会の10分の一税のような20分の1税を導入しようとするが反対が多く形骸化します。

またプロイセンオーストリア進軍により始まる7年戦争(1756~1763)ではフランスはプロイセンがイギリスと協力関係になったことで半ば裏切られることがおこりまたオーストリアプロイセンを孤立させようと画策したためフランスはオーストリアと手を組むことになります(外交革命)。

戦争は英仏の植民地戦争も並行して行われ18世紀の世界大戦と呼ばれることがあります。

結果フランスはカナダ、ルイジアナ西インド諸島の植民地を失うことになります。

この戦争により財政が逼迫しフランス革命の大きな原因となりました。

この戦争でオーストリアとの関係が改善しルイ16世とマリーアントワネットの結婚が成立します。

小話として1715年ダミアン(八つ裂き)によりルイ15世の暗殺未遂事件が起こっていました。

ルイ15世の公妾のポンパドゥール夫人は鹿の園芸術を保護したことで有名です。

ルイ16世 初期


次のルイ16世(1774~1792)が王位につくがこのときにはルイ14世ルイ15世の戦争により財政破綻を起こしており国内が騒然としていました。

そのため経済の回復のためジャック・テュルゴーやジャック・ネッケルを登用し、テュルゴーは農作物の自由化を進めたが1775年の「小麦粉戦争」とも呼ばれる不作の年が来てその責任が無理やりテュルゴーに押し付けられ罷免されます。

またルイ16世1780年の王令で拷問の廃止したことで人権思想があったことが窺えます。

 

 

7年戦争は個人的にも物足りなさを感じます。

今回はここまで