王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

フランスの通史⑤ ヴァロア朝(1329~1589)

こんにちは。愛知大学王室研究会代表です。

今回はヴァロア朝です。

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百年戦争

前半戦


シャルル4世の死後、シャルル4世の従兄のフィリップ6世(1328~1350)が王位につきヴァロア朝が始まります。

一方シャルル4世の姉のイサベルがアンジュ―家(イングランドの王家)のエドワード二世に嫁いでその子エドワード3世が誕生します。

そのエドワード三世が母から直系の血筋を受けていることから傍系のフィリップ6世よりも相応しいとしてフランスの王位継承権を訴え百年戦争(1339年~1453年)が始まります。

しかしフィリップ6世が王位についた際にはエドワード3世がフランスのギュイエンヌ大公として臣従していることから王位継承権までは要求していませんでした。

しかしフランスがイングランドの宿敵であるスコットランドをと支持し、イングランドの大陸領土であるフランス南西部のガスゴーニュ地方も取ろうとしたため王位継承を訴えることになり戦争が始まってしまいます。

1339年フランドル地方で始まり1346年にはエドワード三世はノルマンディーに上陸し1346年にはクレシーの戦いでフランスは数的優勢のなか大敗を喫することになります。1347年ペスト流行などにより1355年までの休戦が結ばれその間の1350年にはフィリップ6世が死去しジャン2世が王位につきます。

f:id:Fujisakiand:20200504165552j:plainクレシ-の戦い

しかしジャン2世が和平交渉の内容に満足せず戦争が1355年再開され1356年ポワティエの戦いによりエドワード黒太子の活躍でイングランドが圧勝しジャン二世を捕虜になってしまいます。

王太子のシャルル(後のシャルル5世)が国政を担うことになり1360年ブルターニュ・カレー条約を結びイングランドブルターニュフランドル地方を手放す代わりにアキテーヌ、ガスゴーニュ地方、ポワトゥーのフランス南部を手に入れフランス王に臣従礼をしなくても良い権利を得てジャン2世の身代金300万キュという大金が設定された(アキテーヌボルドーのワインが有名だったため欲したかも)。
フランスへ帰る前にジャン2世は死去しシャルル5世(1364~1380)(賢王)が王位につきます。

シャルル5世により所帯ごとに課税した戸別税、消費するときに間接税として課される塩税(ガベル)を導入し税金の父と呼ばれます。

さらに官僚と常備軍の設置することで後の絶対王政の基礎が作られ、ベルトラン・デュ・ゲクランを司令官に置きます。

彼は後にアキテーヌやガスゴーニュ地方の奪還で活躍します。

1369年には黒太子がアキテーヌ領での裁判に不出頭だったためアキテーヌ領を正式に没収します。

後半戦


そのシャルル5世が1380年に亡くなるとシャルル6世(1380~1422)が王位につくことになりますが国王の精神病により国内が荒れることになってしまいます。

シャルル六世の弟オルレアン公ルイを継ぐ勢力のアルマニャック派、従兄弟のブルゴーニュ公ジャンを支持するブルゴーニュで内乱が起こり、この内乱に乗じてプランタジネット朝の次のランカスター朝の二代目ヘンリ5世がフランス王位、アキテーヌを欲しノルマンディー上陸します。

アルマニャック派はアザンクールの戦い(1415年)でイングランド軍に負けて実権はブルゴーニュ派にわたることになるが再度イングランドが侵攻してきたことでブルゴーニュ派は王太子のシャルル(後のシャルル7世)に歩み寄りを見せます。

f:id:Fujisakiand:20200504165652j:plainアザンクールの戦い

しかしシャルルがブルターニュ派の指導者のジャンの暗殺の黒幕であったことが判明しシャルルの王位継承をふせぐためヘンリ5世と和解し、トロアの和約(1420)を結びます。

これによりヘンリ5世の息子の継承権を認める形になりますがすぐにシャルル6世が死去しヘンリ5世も病により死去しその子ヘンリ6世(1422~1461)がフランスの王位を兼ねることになります。シャルル6世の王太子であったシャルル(シャルル7世)もフランスの王となります。

シャルル7世(1422~1461)はブルゴーニュ派とも対立し領土も南部のみと少なく危機的な状況でしたがここでブルゴーニュ派がイングランドと仲違いし、さらにジャンヌダルクの登場により形勢が逆転します。

f:id:Fujisakiand:20200504165923j:plain形勢が逆転したオルレアン包囲戦

ジャンヌダルクは後にブルゴーニュ派に捕らえられ異端審問にかけられ火刑に処されてしまいます。

しかしローマ教皇カリストゥス3世により無実と殉教が宣言され1920年に列聖されます。

1436年にパリを奪還、1453年のカスティヨンの戦いで大陸から追い出します。

結果イングランドはカレー以外の大陸領土を失うことになり戦争は収束します。

ちなみにイングランドが完全に大陸の領土を失うのはイタリア戦争です。

そして百年戦争により中世の解体の起こり王権が次第に強くなっていき絶対王政の道が開かれ始めます。

一方ブルゴーニュ派との対立は依然として続き次のルイ11世(1461~1483)まで引き継がれます。

ルイ11世


ルイ11世(蜘蛛)は大貴族の特権と年金の廃止し大貴族に臣従式を強制する強硬策にでますがブルターニュ地方を占領し王領地の拡大に成功します。なぜ蜘蛛かというと嫌われていたからです。個人的には百年戦争後のフランスをまとめ印刷業を保護したことからも良い王だったと思います。

イタリア戦争

前半戦


次はシャルル8世(1483~1498)が王位につきます。1494年ナポリ王国の王位継承権を訴え進軍、ナポリを占領し戴冠するもイタリアの各都市が反発し追い返されることになります。

この時のイタリアは都市国家が多数乱立し群雄割拠の土地でありナポリも同様に都市国家の一つでスペインのアラゴン家の支配が一時無くなった時を狙い進軍しました。

王位継承の根拠としては13世紀のルイ9世の弟アンジュ―伯シャルルがナポリ王であったからという強引なものでした。
直系男子がいなかったため傍系のシャルル5世の曾孫のルイ12世(1498~1515)が王位につきます。

ルイ12世もイタリアに侵攻、父方の祖母の血統を理由としてミランにも進軍しミランを征服するも教皇と対立し撤退します。

この時代イタリアはルネサンス期であったため進軍したのではと考えられます。

後半戦


次のフランソワ1世(1515~1547)もイタリアへ進軍するが今回は神聖ローマ皇帝の継承権問題も絡んできます。

f:id:Fujisakiand:20200504170100j:plainフランソワ1世

神聖ローマ帝国の帝位は血統ではなく七選皇帝による選挙であったためフランソワはそこに立候補するわけです。

結果としてはスペイン国王に就いていたハプスブルク家カール5世スペイン王としてはカルロス一世)が神聖ローマ皇帝となります。

ここでフランスはドイツとスペインに挟まれる状態になってしまいます。

これに反発することになりその過程でイタリア戦争は続くことになります。

フランソワ一世の戦争以外の面では1516年ボローニャ政教協約がフランソア1世の時にレオ10世との間で結ばれ、これによりフランス国内の大司教、司教、修道院長の叙任権をフランス国王が持つことになります(ガリカリスムの始まり)。

1539年にはヴィレール・コトレ王令により各教区に洗礼と葬送の記録と提出を命じ更に文書のフランス語の使用を義務化し国内の言語の統一化を進めました。併せて1579年にはブロア王令により婚姻の項目も追加され国民の管理を行うようになります。

またミラノを征服したときレオナルドダヴィンチを保護したことも有名です。

海外進出も進め北アメリカ大陸にジャック・カルティエを派遣しケベックあたりに上陸したことから現在もケベック州ではフランス語が使われています。
イタリア戦争は結局カトー・カンブレジ条約(1559)によりフランソワ1世の次のアンリ2世(1547~1559)とカール5世の次のフェリペ2世が条約に調印します。

この戦争によりイングランドは大陸領土をすべて失うことになりフランスはコルシカ、ピエモンテサヴォワを放棄しカレーを手に入れることになります。

ユグノー戦争

聖バルテルミの虐殺


アンリ2世の死後11代目フランソア2世(1544~1560)を経てシャルル9世(1561~1574)が王位につきます。しばらく母のカトリーヌ・ド・メディシスが摂政に就きます。

この頃にはカトリックプロテスタントユグノー)が二分する構造が生じていました。

それもルターの95か条の論題は1517年に公開されており、1559年には神聖ローマ帝国内ではプロテスタントが認められるほどに発展していたことが背景にあります。また聖書をドイツ語に翻訳したのはルターでフランス語訳をしたのはデタープルです。

1534年の檄文事件(カトリック教会を批判する文が教会などに張り出され時の王フランソワ1世の寝室にまで貼られていたことから国王が怒りプロテスタントを弾圧した事件)のようなことがない限り国王はプロテスタントに対しては寛容でした。

しかし1562年ギース公フランソアの一派が日曜礼拝に訪れたユグノーを虐殺、そして復讐として逆にユグノーのメレ領主ジャン・ポワトロ(八つ裂き)がギース公フランソアを殺害することに始まりここに宗教戦争が幕を開けます。

事態を収束せんためにカトリーヌはユグノーのリーダーブルボン家のアンリ(アンリ4世)とシャルル9世の妹マルグリットの婚姻を決めます(王妃マルゴという映画にもこの場面が描かれているらしい)。

しかし1572年ユグノーのコリニー提督が暗殺されユグノーに対する虐殺は民間にも広がり聖バルテルミの虐殺と呼ばれます(8/24)。これに怒ったシャルルはその二年後死去してしまいます。

f:id:Fujisakiand:20200504170158j:plain聖バルテルミの虐殺

三人のアンリ


シャルル9世の次にアンリ三世(1573~1589)が王位につきます。

エリザベス女王との縁談もあった人物で、フランスでの統治はボーリュー勅令によりプロテスタントの公的礼拝を認めることになりますカトリックが反対し廃止に追い込まれます。

これに反対してナバラ王プロテスタント)のアンリが蜂起(第6ユグノー戦争)するも失敗し、1584年王弟アンジュ―公が亡くなるとナバラのアンリがサリカ法により筆頭王位継承者になりますがこれに反対したギース公カトリックアンリが反乱(トロアアンリの戦い)が起こります。

これでナバラ王のアンリの継承権が無くなり、穏健カトリック派を指示していたアンリ三世はプロテスタントへの改宗を強制する7月勅令を発布することになります。

アンリ三世は急進派のカトリック派の対処に困りギース公の王位に対しての野心を察知し逃亡します。ギース公も王権を制限しようとブロワで独自に三部会を開きます。

f:id:Fujisakiand:20200504170557j:plainアンリ3世とナバラ王のアンリ

この報復としてギース公を暗殺ナバラ王と協力関係になりますがここでパリ市民とカトリック派は憤慨しギース公の弟マイエンヌ公を立てて国が二分することになります。しかしドミニコ修道会のジャック・クレマン(八つ裂き)がアンリ三世を暗殺したことでヴァロア朝断絶してしまいます。

 

 

 

今回はここまで