王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

高円宮憲仁親王と韓国【前編】親王の略歴

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文責:藤原 大翔 (明治大学王室研究会)

 

高円宮憲仁親王とは大正天皇の第四皇子である三笠宮崇仁親王の第五子である。平成14年(2002年)に47歳の若さで心室細動のために薨去した。

本記事は親王が健在中に果たした戦後初の皇族による韓国公式訪問を扱ったものである。

 

この記事の目次

高円宮憲仁親王への追憶

「追憶」などと洒落た言葉を使ってみたはいいが、実のところ私は高円宮憲仁親王に対して追憶を重ねられるほどの記憶を持ち合わせていない。

親王薨去されたのが平成14年(2002年)のことであり、私は未だ母親の手の中で泣いていた赤ん坊であった。

それについても確信的な根拠は当然得られないわけではあるが、後代に見せてもらった写真などでその旨を確かに認識している。

 

私が出生した時、世の中はワールドカップブームに沸いていた矢先であった。

最もそれ以前には米国のワールドトレードセンターなどが標的とされた9・11同時多発テロが発生し、現世はテロとの戦いに対峙していたときでもあった。

 

私の出身は静岡県西部であるが、この地にはエコパスタジアムというワールドカップ開催に合わせて建設された総合競技場がある。

日本にW杯がやってくるという事実の中で建設が進められていたエコパスタジアムは県民随一の誇りであり、今でも当時の熱気を私たちに伝えている。

昨今ではラグビーW杯が同地にて開催され、日本が歴史的勝利を押さえたことは記憶に新しい。

帰省時に父親に対して

「静岡の奇跡って言われただら?」

と聞いたところ

「エコパの奇跡だに」

と言い返されてしまった。

 

それはさておき、私はこのエコパスタジアムの落成と同時に誕生したようなものなのである。

 

2002年に日韓同時開催が決まったワールドカップであるが、私をエコパスタジアムと同期の桜に咲かせてくれたのは、一重に高円宮憲仁親王の功績によるところが大きい。

両国とも単独開催を望んでいた大会であったが、結果的に日韓同時開催となった。

この2002年FIFAワールドカップは、そこに至るまでに紆余曲折とした歴史が刻まれていた。

そして、日韓同時開催決定の瞬間をただ一人喜んだのが高円宮憲仁親王であるという。

 

私が生きていた時に確かに存在した高円宮憲仁親王

親王と私のわずかに共有された時間の隙間を埋めていきたい。

その時間こそが2002年に行われた日韓ワールドカップに伴う高円宮憲仁親王訪韓である。

 

今回、私は親王の事績を多数の文献の力を仰ぎ不十分ながらなんとか振り返った。

親王の功績や人徳を集められた紙のみで探っていくことに抵抗感を覚えることもあったが、本来歴史研究とはそういうものであったことを思い出す。

 

日韓友好の架け橋になろうとした高円宮憲仁親王について、末筆ではあるがこの王室研究会という場を借りて記述していくこととする。

 

【前編】では親王の略歴を記す。

【中編】には親王訪韓までの道程を追っていく。

【後編】では親王訪韓時に果たした事績を記述していく予定である。

 

高円宮憲仁親王の略歴

高円宮憲仁親王(以下憲仁親王)が誕生したのは昭和29年(1954年)も瀬の頃であった12月29日である。

当日の朝は氷点下を記録していたようであり、師走も極寒の季節だ。

憲仁親王大正天皇の第四皇子である三笠宮崇仁親王の第五子として誕生した。

上の兄弟には

第一子に寧子内親王(近衛寧子)

第二子に寛仁親王

第三子に宜仁親王桂宮

第四子に容子内親王(千容子)

がいた。

当時、秩父宮高松宮に子供がなかったことも影響しているのかもしれないが、三笠宮崇仁親王は国民から「子沢山の宮様」と称されていた。

昭和天皇香淳皇后は7人の子宝に恵まれたことを考えれば当時では決して多すぎるというわけでもなかったのかもしれない。

誕生の祝賀には旧皇族らも含めた多数の人々から祝福の訪問を受けた。

竹田恒徳夫妻、東久邇盛厚夫妻らである。

高円宮憲仁親王三笠宮

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三笠宮紋章
11宮家臣籍降下への危機感

三笠宮妃百合子が書き留めていた『柊乃暁』は憲仁親王の大学卒業までを綴った日記である。

親王のお印である”柊”からとられたものと考えられる。

戦後から10年経たない日本の様子を今に伝えている大変貴重な日記だ。

百合子妃は令和2年においても健在であり現在の皇室の最長老の立場に置かれている。

 

親王が誕生した時代は、昭和22年に行われた11宮家の臣籍降下によって宮家の存続自体があらゆる面で危惧されていた時期だった。

結局、昭和天皇の兄弟が創設した「直宮」以外の降下がされていったのだが、宮家の立場に置かれる以上、安心できるものではなかった。

そのため、三笠宮夫妻は万が一のことも考えて5人の子供たちに教育を施していった。

その”万が一”とは11宮家のような臣籍降下の自体であろう。

寛仁親王の性格は皇族か国民かの不安定な状態で育てられた故でかわいそうなものであると憲仁新王は後に述べている。

確かに、内廷皇族と宮家皇族とでは皇室経済法の規定するところなどに差異がある。

皇室典範出発の時にあたり、皇族内でも混乱が生じていたのだろう。

思い出の「目黒の家」

三笠宮邸は当時東京の品川に置かれていた。

憲仁親王は「目黒の家」などと称している。

目黒駅の方が近かったことから、一家でそう呼称したようである。

三笠宮邸は後に赤坂御用地に新造された新宮邸に移るが、目黒の地で一家共に暮らした生活は5人の兄弟に良き思い出として共有されていた。

天皇宗家が家族共に暮らすようになったのは平成の天皇上皇)の時からであるが、皇室としての先駆者は三笠宮家だった。

寛仁親王は後に「皇位継承権が親父にも私たちにもある以上、初めて歴史に挑戦した勇気は認めてあげる必要があると思う」と述懐している。

憲仁親王の誕生によってますます賑やかな雰囲気に包まれた宮邸は一家にとってかけがいのないものだったに違いない。

父・三笠宮崇仁親王紀元節反対

三笠宮崇仁親王による紀元節反対への意思は有名であると思う。

戦後も数年を過ぎ、日本が独立をなすやいなや戦前に祝日となっていた紀元節を再興する動きに対して、三笠宮崇仁親王は公然として反対の意を示した。

ある歴史会で、崇仁親王は「すべての歴史研究家はこの案に反対する必要がある」とまで述べている。

そんな崇仁親王に対しては、当時から厳しい世論が当てられていた。

特に右翼論者からは皇族辞退を責められていたほどである。

三笠宮邸には日夜右翼活動家が押し寄せ、親王と話をさせろなどといった暴行が働かられた。

百合子妃はこの時5人の子供たちを部屋の奥に隠しやり過ごしている。

 

ちなみに、憲仁親王は後に父である崇仁親王の発言に賛同の意を示している。

高円宮憲仁親王と青春時代

憲仁親王は「スポーツの宮様」と称されることがあるが、小学生時代には運動が苦手な物静かな子だったようである。

また、幼少の頃から音感に優れており、それは親王の趣味でもあり生きがいでもあった。

それらはチェロ演奏や作曲などの活動につながっていく。

 

中学生になると学習院中等科恒例の沼津での遠泳大会で見事4キロの遠泳に成功している。

この際には現地の体育館でスピーチも口上しており百合子妃の日記『暁乃柊』では「感無量」と称えている。

 

学習院の高等科に進むと、ホッケー部へ入部する。

これには微笑ましいエピソードがある。

どうやら当時の学習院高等科の男子生徒の中ではホッケー部だけが唯一女子と遭遇できるチャンスがあったようである。

学習院女子部は高田馬場にキャンパスが配置されていた。

親王とその友人らは「部活動という名目で堂々と女子部に入れる」と期待して入部したのだった。

憲仁親王はホッケー部で類稀なる才能を開花させる。

学習院ホッケー部はインターハイの出場を成し遂げた。

対戦相手は大会でベスト4を狙う強豪校であったが逆転勝ちを収めている。

この時の大会には皇太子(今上天皇)が臨席しており親王は後に「試合に出れたのは皇太子さまが臨席していたからではないだろうか」と自身の実力を懐疑的に見ている。

友人には「それはないんじゃないか」と否定されていた。

 

大学の進学先は京都大学の物理科も視野に入れていたようであるが、最終的に皇室の伝統である学習院大学に入学をする。

高等科の中で上位30名ほどしかもらえない法学部の推薦をもらったようなので、かなりの秀才であったことは間違いない。

大学時代にはもっぱらスキーにのめり込んでいった。

兄の寛仁親王も在籍していた学習院大学スキー部である。

昭和49年(1974年)には親王を大事故が襲う。

スキー合宿中に起こした事故は、親王に左足のスネ骨を複雑骨折に処した。

大事には至らなかったが軽傷の後遺症が残ったようである。

 

20歳の誕生日を迎え、宮中三殿にも拝礼を終えた憲仁親王は一人前の青年皇族としての門出に迫られていた。

そんな時、親王のカナダへの留学が閣議で了承される。

皇族の留学は閣議で承認を得ることは必要とされていた。

兄の寛仁親王はイギリスに、次兄の宜仁親王はオーストラリアに留学していたこともあって、憲仁親王の留学先は比較的治安も良い北米のカナダに定められた。

親王の希望はなるべく日本人が在学せず、小規模な大学だった。

そこで、カナダのクィーンズ大学が選ばれたのである。

親王はそこでの3年間で英語をマスターしている。

高円宮憲仁親王宮号高円宮

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高円宮紋章 父・崇仁親王のお印である若杉がデザインされている

東邦物産専務の鳥取滋治郎と二三子の令嬢である鳥取久子との結婚に伴い、憲仁親王は「高円宮」の宮号昭和天皇から下賜された。

高円の宮号奈良県にそびえる高円山から採用された。

古来より歌枕の地であり聖武天皇の宮も置かれた皇室にゆかりのある山である。

近くには三笠山もそびえ南都奈良ではこの山を同時に拝むことができる。

 

妃へのプロポーズは”WILL YOU MARRY ME?”という英語だった。

久子妃著『宮様との思い出』では親王が日本語だと恥ずかしいから英語にしたと述べられている。

久子妃自身も翻訳業を務め英語もピカイチであったため、屈託なく”YES”と答えた。

ここに、新宮家「高円宮」が誕生したのだった。

高円宮憲仁親王とサラリーマン

憲仁親王は次兄の宜仁親王NHK嘱託職員の先例を踏襲し、親王自身もサラリーマンとして企業に勤めることとなった。

国際交流基金に勤め始めたのは高円宮家創設以前である。

国際交流基金とは外務省が所管する独立行政法人のことである。

一般企業には就職は困難とみられての処置だった。

同僚には「三笠と呼んでください」と自己紹介で述べた。

親王と職員は皇族と国民という関係性を保ちながらも非常に親しい関係性を持つこととなった。

勤務にあたり、親王専用の個室の用意が企図されたが、親王はそれを断っている。

東京の夜の街へ同僚と飲み明かすこともあったようであり、同僚は親王の顔が割れないか心配していた。

しかし、その当時には三笠宮家の3男にあたるスポットライトの光は微小で、国民も憲仁親王をすぐには判別できなかった。

親王自身も「私は国民に顔が割れていない」と漏らしている。

長期にわたって勤務した国際交流基金親王の絆は強く、薨去に際しても多数の記帳が寄せられている。

高円宮憲仁親王と芸術

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根付(wikipediaより)

憲仁親王は重度の根付愛好家であった。

「根付とはなんぞや」と思われた方もいるかもしれないが、私もその一人だった。

根付とは和服の帯に巾着などをぶら下げる際に滑り落ちないようにフックの役割を果たすものらしい。

象牙から制作される彫刻アートといっていいだろう。

親王は久子妃の影響で根付の世界に入り込んでいく。

世界で日本の根付紹介に尽力し、根付匠との交流を重ねていた。

 

音楽に対しては親王も「有史以来、音楽は私とともにあった」と述べ自身が無類の音楽付きであることを自負している。

『暁乃柊』でもその音感の類稀なる才能は記述されている。

幼少時から音楽に対して触れ合いを保たれてきた親王だが、学習院中等科時代には仲間内で結成したバンドである「トロワジェーム」で作詞作曲を手がけた。

その活動は趣味の範囲を超えていく時もあった。

 

バレエや歌舞伎なども嗜好の一つだった。

歌舞伎に関しては久子妃の影響によるところが大きい。

親王は海外で「日本の伝統文化を教えてくれ」と言われたときにたいそう困惑したようである。

幼少期から三笠宮家では洋楽がかかっている時が多かったため、海外音楽の知識はある程度備えていたが、一方で日本音楽への理解が進んでいなかった。

親王は歌舞伎や雅楽を通じて様々な世界を知っていくことになった。

チェロは平成の天皇上皇)から余っていたものを下賜され、40歳から始めたものである。

薨去の当日もチェロのレッスンに励んでいた。

高円宮憲仁親王と世界巡行

高円宮同妃夫妻とも語学力に長けており、移動中の飛行機などでの会話は英語で話していたという。

そんな夫妻は高円宮家創設後数々の国へ訪問していく。

菊の御紋の外国交際は大使100人分と称されることもあるが、天皇の傍系親族にあたる憲仁親王も当然ながらその権威を身に帯びていた。

その数は夫妻ともに34回である。

いく先々の国では最大限のおもてなしがなされていた。

その中でも韓国への訪問は歴史的なものである。

これは次編の記事に任せたい。

また、親王夫妻は国内に於いての外国交際を大事にした。

大使官邸へ頻繁に訪れ、外国文化を一所懸命に摂取しようとしたようである。

訪問する先々の国ではその土地の食材を必ずいただくようにし、過密スケジュールを組んだ。

これは皇族という身分にある以上、自由に外国訪問を行えないためのものだった。

その時々の人々との”瞬間”を非常に重要視していたのである。

高円宮憲仁親王と3人の娘たち

憲仁親王には3人の子宝に恵まれた。

長女の承子女王

次女の典子女王(千家典子)

三女の絢子女王(守屋絢子)

である。

高円宮家の教育方針は背中から学ぶこととされていた。

しつけには常にお手本となるような日本語を使うことも採用されていたようである。

宮邸で公務の挨拶文を執筆している最中でも娘たちとの交流を優先させていた。

久子妃著『宮さまとの思い出』には親王の慈愛に溢れる教育が記されている。

一方で、娘たちは「お父さまに叱られると本当に怖かった」とも称しており、親王の子供に対しての接し方が垣間見える。

慈愛の中にも厳格を忘れないその姿は、一般的な父親の姿と非なるものはないだろう。

親王薨去に際しては、娘たちは一切動揺することがなく、高円宮家一丸となって乗り越えられたことを久子妃は語っている。

父親のあまりにも突然の死去は娘たちのどれほどまでの悲しみを与えたのか。

娘たちは悲しむことよりも”お父さま”を無事に送り出したいという思いの方が強かったようである。

そんな”3人の娘”は高円宮家を支えていく立派な”女王”と成長していく。(無論生まれた時から女王である)

高円宮憲仁親王薨去

平成14年11月21日午後10時52分であった。

カナダ大使館でスカッシュの練習に打ち込んでいた最中に親王が突然意識不明に陥った。

信濃町慶應病院に搬送されるがその日のうちに薨去された。

47歳の若さである。

病院には常陸宮夫妻や兄弟をはじめとした皇族たちが駆けつけた。

当時入院中だった父、三笠宮崇仁親王も参じている。

意識が回復されない憲仁親王三笠宮夫妻は「のり、のり…」と話しかけていた。

夫妻は親王を「のり」と呼んでいた。

前触れも無い薨去の知らせは、日本のみならず四方の海への広がっていった。

前年に親王が公式訪問した韓国の聯合ニュースは速報で伝えた。

カナダの留学先であったクィーンズ大学が所在する地元紙は親王薨去を一面にして報じた。

 

三笠宮家の最年少が真っ先に旅立ったのだった。

中編に続く

*参考文献等は最終編に一括に記させていただきます