王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

フランスの通史④ カペー朝(987~1329)

こんにちは。愛知大学王室研究会代表です。

ここから西フランク王国ではなくフランスに変更します(特別な区切り目はありませんが形式的させていただきます)。

前回

 

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カペー朝の始まり

カロリング朝が断絶した後に諸侯が選出し王位についたのは西フランク王のロベール1世の孫であるパリ伯ロベール家のユーグ=カペー(987~966)でした。

f:id:Fujisakiand:20200501140620j:plainユーグ=カペー

ちなみにカペーはあだ名で彼が羽織っていた俗人修道院長が羽織っていたケープに由来します。

なぜ支配地区がパリとオルレアンしかないカペーを選出されたのかというとロベール一世の父ロベールがノルマン人と戦いロベール豪胆王と呼ばれフランキア大公とも呼ばれる人であったためこのような血筋が王として相応しいと諸侯が考えたのではという説があります。

カロリングの王であるロテール王の弟が生存していましたが王位は世襲ではなく気品と英知で選ばれるべきとして退けました。

カペー朝から皇太子を在位中に決めるようになり始め長きにわたり血統をつなげそのあとのブルボン、ヴァロア朝も傍系ですがカペー家につながります。7月王政期のフィリップ7世も傍系ではありますがカペー一族です。

またこのころから長子相続へ移行し次男以降が騎士や修道院はいったりすることになります。

修道院と騎士

ここで修道院とは何かというと本来は信仰を基に生活する場所ですがうまくいけば修道院領として所領がもらえることがあったのでそれを目指して入る人もいました。

一方騎士とは君主に忠誠を誓い有事の際には戦うことを仕事です。

f:id:Fujisakiand:20200501140854j:plain騎士

平時の際は君主より認めてもらった所領で農業経営をしておりここでの経営は自ら農業をするのではなく税の徴収や賦役の支持をしているため小領主に近いです。

また税金も一律ではなくそれぞれの関係性のもと決められていました。

騎士と君主とも関係性はその上の君主と国王の関係性にも適応されており、江戸時代の幕藩体制に近いですけど、一番の違いは国王が君主に対して直接家産を奪うことはできず江戸でいう領地替えのようなことはできません。

ただ有事の際には自らの資金で行動するため恣意的に減らすことはできますが直接は無理ということです。

話を戻します。

カペー朝初期

二代目ロベール二世(966~1031)は一時結婚問題でローマ教皇グレゴリウス5世によって破門されるも敬虔王と呼ばれるほどに信心深く、ルイ1世と同じく敬虔王と呼ばれます。

三代目アンリ1世(1031~1060)を経て4代目フィリップ1世(1060~1108)が王位につきます。

7歳で即位したが母のアンヌが摂政となり、フランスで初めて女性の摂政が生まれます。

第一回十字軍には弟のユーグが参加しています。

5代目ルイ6世(1108~1137)が王位につきます。別称は肥満王または戦争王です。戦争王と呼ばれますが悪い人ではなさそう。

この頃から王権が強くなっていきます。

6代目ルイ7世(1137~1180)が王位につきます。

1147年の第二次十字軍に参加します。

一人息子のフィリップ二世が病気になったため聖トマスの祠に祈願するためフランス王で初めてイングランドを訪れています。

フィリップ2世とルイ8世

7代目のフィリップ二世(1180~1223)(フィリップオーギュスト)が王位につきます。

f:id:Fujisakiand:20200501141210j:plainフィリップ2世

ジョンとの戦い

イングランドのアンジュ―朝(プランダジネット朝)を抑えることに成功したことが大きな功績としてあります。

当時フランス中西部を所領していたアンジュ―伯アンリは母方の血統を理由にイングランドでヘンリ2世としてプランタジネット朝を開いており、大陸領土もアンジュー伯領以外にもノルマンディー公領やフランドル伯領、アリエノールとの結婚でアキテーヌ領まで獲得していました。

ちなみにアリエノールはアキテーヌ公の娘として生まれ吟遊詩人を保護して宮廷文化をフランスやイングランドに広め、子孫の多くが君主及び妃になったことからヨーロッパの祖母と呼ばれています。

ヘンリ二世と対立し始めその後のリチャード一世獅子王)にも引き継がれ、その弟のジョン(失地王)が王位についたときフィリップ二世にチャンスが来ます。

アキテーヌアンジュー家に対する訴えが起こるがジョン王が裁判に来なかったためフィリップが大陸の土地を正当に没収することに成功しこれに対抗してジョンが神聖ローマ帝国のオットー四世と組んで戦争しますがブーヴィーヌの戦いでフランスが勝利することで領土と王権を確立します。

内政

もう一つの功績として自治的な都市を支持しその都市を集合領主として扱うことで保護しその都市から税金を取ることで地方諸侯の権力を弱めることに成功します。

これが意味するのは領邦国家の時は王と諸侯との私的な主従関係で市民には主従関係は成立していませんが自治都市の方は市民にも国王との主従関係が直接成立することにより国王としての権力の支持の母体が大きくなります。

端的に言えば国王に対する帰属意識の高揚です。

また文書主義の立場をとりそれらを管理する法曹家の役割が重大になり官僚体制の構築を進めることになります。

またパリ大学を創設するなどにより民衆の支持も得ました。

ルイ8世

8代目ルイ8世(1223~1226)(獅子王)が王位につきます。

1216イングランド諸侯と協力し第一次バロン戦争でイングランド王位にもルイス1として宣言した経歴があります。

バロン戦争はイングランド諸侯と連携しロンドンを占領する目前でジョンの跡を継いだヘンリ三世がマグナ・カルタを承認したため撤退を余儀なくされます。

ルイ9世とフィリップ3世

9代目孫のルイ9世(1226~1270)の時代に高等法院をパリに創設、金貨の基準を定め、私戦の禁止など国内を安定化させています。

f:id:Fujisakiand:20200501141351j:plainルイ9世

さらに尽力したのが十字軍です。7回(1248~1254)や8回(1270)十字軍に莫大な資金を投入しますが7回目の十字軍でアイユーブ朝に捕虜にされています。

私生活でも敬虔な信者として生活し教皇と対立している国とは調停を進んでやることからフランスの王で唯一の聖人に列挙されています。

十字軍遠征とは大義名分はエルサレム奪還だが実際は文化的にイスラム圏の方が進んでいたことや領土獲得のために行なわれていた面もありますがルイ9世は純粋な信仰心で参加していたことも特筆すべき点です。

キリスト教の進展

話は変わりますがここでキリスト教の進展を少し触れます。

カロリング朝になってから現在の教皇を頂点としその下に大司教区、司教区、末端に教区がおかれる協会組織が形成されます。

ここではまだ民間レベルではキリスト教は普及していなかったため多神教と融合し信者を獲得すべく聖遺物を取り入れそのものが礼拝の対象とし民衆でも分かりやすくし布教し始めました。修道院では性質上土地を多く持っており生産物の余剰が生まれ、それを売ることを始めます。

例えば高級シャンパンのドンペリが有名です。

豊かになった修道院は妻帯を始めるなどの腐敗が横行するようになりますが10世紀にこの現状を変えるべく改革運動をおこしたのがブルゴーニュ地方のクリュニー修道院とシトー修道会でしたが生産が軌道に乗ると堕落してしまいます。

f:id:Fujisakiand:20200501141530j:plainクリュニー修道院

13世紀に再び改革運動としてイタリアでうまれたフランシスコ会、フランスでうまれたドミニコ会があり、質素な生活や神学を勉強する会だが異端審問官に任され、海外で布教するといった後世に名を残すような活動をします。

フィリップ3世

10代目フィリップ3世(1270~1285)(大胆王)が王位につきます。

シチリアの晩祷事件(1282)によりアラゴン王国シチリアを占領したことに対して教皇アラゴン王を破門しアラゴン王位をフィリップ三世に与えるもフィリップはアラゴンを侵略できませんでした。

シチリアの晩祷事件とはフランス貴族の支配下にあったシチリアで不満がたまった住民が反乱をおこしフランス系の住民を虐殺する事件でこれによりアラゴン王国が混乱に乗じてシチリアの王位についたため教皇はフランス貴族と仲が良かったため上記のようなことが起りました。

このシチリアの晩祷事件に密接に関わるアンジュー伯シャルルの事を追求すべきか逡巡しましたが本筋と少しずれてしまうので書きません。

フィリップ4世とその後

11代目フィリップ4世(1285~1314)(端麗王)は毛織物生産により有名だったフランドル地方にまで勢力を伸ばすためイングランドと戦争をすることになります。

この戦費調達のためフランスで初の全国的な課税を行い税はキリスト教会にも課せられました。

この課税で教会にも課税がされたことで教皇ボニファティウス8と対立します。

1302年国内世論を味方につけるべく聖職者、貴族、民衆による三部会を開きます。

またギヨーム・ド・ノガレに教皇の捕縛を命じコロンナ家と結託してアナーニ事件を起こします(ノガレの両親は異端審問で火刑に処されコロンナ家も教皇の政敵で財産没収され国外追放に処されていたため復讐劇に近いです)。

f:id:Fujisakiand:20200501141611j:plainアナーニ事件

アナ―ニ事件が起こりボニファティウス8世は憤死しクレメンス5世が擁立されるが登位もリヨンで行われ一度もローマに帰らず教皇庁アヴィニョンに移したことからアヴィニョン捕囚(1309~1377)と呼ばれ約70年間教皇権はフランスの影響下のもと行われるようになります。

70年後にはローマとアヴィニョンが共に教皇を立てたことでシスマ(分裂)が起こり1417年のコンスタンツ公会議まで続きました。

またテンプル騎士団を異端として協会の徴税権と騎士団財産の没収がなされます。

12代目ルイ10世(1305~1316)(喧嘩王)ジュ・ド・ポーム(テニスの先駆け)が好きで世界で初の屋内テニスコートの建造を命じました。

13代目ジャン一世(1316年11月15日~11月19日)(遺児王)出産と同時に即位が1週間もたたずに死去します。

14代目フィリップ5世(1316~1322)(長躯王)を経て15代目シャルル4世(1322~1328)(端麗王)が王位につくも直系の男子が生まれなかったことでカペー朝断絶してしまいます。

 

 

ここからフランス史のスタートです。

今回はここまで

次回

 

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