王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

皇韻を探る#5 孝明天皇行幸の舞台!下鴨神社(賀茂御祖神社)へ!

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こんにちは。藤原です。

今回の「皇韻を探る」は下鴨神社こと賀茂御祖神社です。

それでは参りましょう。

この記事の目次

下鴨神社とは 賀茂御祖神社の歴史

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令和元年秋にて
下鴨神社の神様は神武天皇のお母さま

京都に訪れたら一度はお参りしたいのが、下鴨神社ですよね。

正式名称は賀茂御祖神社です。

御祭神には

賀茂建角身命(カモタケツヌミノミコト)

玉依媛命(タマヨリヒメノミコト)

をお祭りしています。

前者の神様は古事記によると、八咫烏となって初代神武天皇を導いていたそうです。

後者の神様は神武天皇お母さまです。

日向三代の最後である鸕鷀草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)と結婚し、神武天皇をお産みになったようですね。

そのことから下鴨神社神武天皇の”親”ということで賀茂”御祖(ミオヤ)”神社と呼ばれています。

 下鴨神社の起源は紀元前!名称は明治期から

神社の歴史は大変長く、2代綏靖天皇(BC581年)より現在にまで渡って歴史を刻み続けています。

10代崇神天皇の時に遷宮(社殿を作り替えること)を初めて実行しました。

そして、29代欽明天皇の時に現代の京都にも色を添えている葵祭賀茂祭が初めて行われました。

奈良、平安の世を経て規模が拡大し、朝廷からも見物人に対して警備に当たるように命じています。

源氏物語などの宮廷文学にはすでに葵祭の記述があることから平安期には確立されていた祭りと考えられています。

 

ちなみに、賀茂御祖神社と名称が定まったのは明治時代からみたいです。

それ以前には賀茂大神宮(かものおほかみのやしろ)と公称されていました。

明治時代に社格制度が本格的に備えられると、官幣大社の首座に置かれています。

 

賀茂御祖神社パンフレットより)

下鴨神社葵祭

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令和元年秋にて
斎王代って何?”代”の意味とは

葵祭の際に一際注目を浴びるのが斎王代ですよね。

毎年どこかのお偉いさんの娘さんが任命されている気がします。。。

この文字に注目してみましょう。

斎王”代”となってますよね。

代というからには誰かの”代わり”なんでしょうか?

そうです。

これは斎王(いつきのひめみこ)と呼ばれる皇族の内親王および女王の代理を意味しているのです。

その皇族女子は未婚に限られていました。

現在でも斎王代未婚の女性から採用されているようです。

 

この斎王ですが、伊勢の神宮にも存在しています。

制度としての歴史は40代天武天皇大伯皇女(オオクノヒメミコ)が初例で以後父母の死や天皇の代変わりによって交代されてきました。

しかし、96代後醍醐天皇の皇女である祥子内親王を最後としています。

現在ではもと紀宮清子殿下こと黒田清子さまが祭主として奉職されています。

 

賀茂社の斎王は伊勢の神宮と同様に卜定によって定められていました。

初斎院と呼ばれる場所で身を清め忌み言葉を避けながら暮らしていきます。

祭りの時には賀茂社に参詣し神事に奉仕していたようです。

9世紀初頭の52代嵯峨天皇有智子(うちこ)内親王に始まり、83代土御門天皇の代に82代後鳥羽天皇礼子内親王で最後となっています。

任期は肉身の逝去や本人の病気などで解任されますが天皇の代替わりでは変わらなかったようです。

この点は、神宮とは異なっていますね。

戦後になって新たに斎王代が誕生 

さて、斎王の制度は礼子内親王で途切れ以後も復興さることがなく20世紀の終戦を迎えました。

そして、昭和53年に斎王代の制度が発表されます。

未婚の皇族女性を招くことが難しいとの判断なのでしょうか。

それ以後は京都出身の未婚の女性が選出されているようです。

この斎王代葵祭の主役とも言えますよね。

しかし、本来は皇室より派遣される勅使こそが最も重要なんです。

 

とは言っても、美しい平安絵巻に花を添えているのは斎王代に他なりませんよね。

光格天皇孝明天皇下鴨神社

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鴨川/歴代天皇大嘗祭の際には鴨川で禊をした
光格天皇下鴨神社臨時祭復興

119代光格天皇といえば閑院宮家から即位し、現在の皇統の直系先祖にあたる天皇として著名です。

上皇陛下の譲位時には「江戸時代光格天皇以来」と銘打って様々な報道がなされていました。

そんな光格天皇は朝廷の儀式こと朝儀を復興していくことに熱中しました。

その一つに賀茂社臨時祭の復興があります。

これは葵祭の例祭とは別の時期に行われるお祭りです。

59代宇多天皇が神からのお告げを受けたとして始められ、祭事には当今天皇宝祚長久を祈願していたようです。

室町時代には衰退し、以後行われることがありませんでしたが、光格天皇賀茂社と同時に石清水八幡宮の臨時祭をも復興させました。

 

しかし、明治3年(1880年)には廃止されており、現在には伝わっていません。

 

神道祭儀を復興していった新政府にしては不可思議な気もしますね。

 

光格天皇はなんとしてでも臨時祭を復興したかったようで、幕府や関白とも密接な協議を重ねています。

天皇の時代には大嘗祭新嘗祭伊勢神宮での神嘗祭が復興されていき、王政復古の基板を盤石にした天皇と称して良いでしょう。

孝明天皇下鴨神社行幸

幕末には、121代孝明天皇尊攘派公家たちに担がれて上下賀茂社石清水八幡宮行幸を行います。

この行幸110代後光明天皇の仙洞御所への行幸以来のことでした。

 

また、天皇光格天皇より復興されていた石清水八幡宮の臨時祭を挙行しています。

元々、石清水八幡宮の臨時祭の起源は平将門平定を祈るために行われたものでした。

この時期、諸国に外国船が到来し、日本の危機を感じていた天皇は、進んでこの臨時祭挙行の意思を表明しています。

臨時祭には天皇は出向かず、宣命と呼ばれる天皇の意志を汲んだ神様への告文を勅使に託しています。

 

話を戻しますと、この上下賀茂社行幸には多数の公家や武士が動員されています。

3代将軍家光以来の上洛となった将軍家茂が行列の後陣に加わっています。

さらには、15代将軍慶喜こと一橋慶喜もこの時行列に参加しています。

天皇と幕府の関係が一般庶民にも目に見えてわかるようになり、倒幕を目論む公家にとっては朝廷の優越さを示した最高のショーになりました。

 

一方で、過激派の公家が天皇の鳳輦を襲う計画があるという噂が立ち、次の石清水八幡宮への行幸は一度中止に追い込まれます。

このようなこともあり、天皇行幸自体に賛同していなかったようです。

 

しかし、最終的には押し切られてしまい、上下賀茂社に続いて石清水八幡宮への行幸もなされていきました。

最後に 皇室と日本人と宗教と

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今回は上賀茂神社下鴨神社の二社がある中で、下鴨神社についてお話しさせていただきました。

この上下賀茂社は、元来は京都に先進的に住んでいた賀茂氏氏神です。

桓武天皇の平安遷都によって王城の総鎮守の役目を任されていきます。

 

皇室はその土地土地にある神々を自己の庇護下にすることが非常に巧妙ですよね。

伊勢の神宮も、元々は伊勢地方の地方神であったとされています。

出雲大社も同様ですね。

 

そしてまた、仏教も皇室のもとで育まれていきました。

宇多天皇の出家に伴う法皇の確立や花園天皇による妙心寺の建立など皇室はすべてを自己のテリトリーに捕獲していきます。 

皇親を派遣した門跡寺院もその一例でしょう。

 

私たちはもしかしたら、皇室という存在から逃れられないのかもしれません。

あらゆる宗教、文化を自己流にアレンジしそれを翼賛していく姿勢は日本人すべてに当てはまりますが皇室がその筆頭を担ってきたのでしたら、それはもう私たちはその上でただ踊っているだけなのでしょう。

 

異論は大いに認めるところです。 

 

みなさんも、ぜひ下鴨神社こと賀茂御祖神社へどうぞ。

早朝をお勧めいたします。

 

王室研究会 藤原 

 

参考文献

刑部芳則『公家たちの幕末維新』中公新書

藤田覚『江戸時代の天皇講談社学術文庫

藤田覚『幕末の天皇講談社学術文庫

皇室辞典編集委員会『皇室辞典令和版』

 

参考サイト

京都新聞特設サイト 2019葵祭