王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

ヤマトタケルと誄歌(大葬歌)〜天皇崩御の鎮魂歌〜

f:id:Fujisakiand:20200426191027p:plain

こんにちは。藤原です。

今回紹介するのは、天皇の大喪儀の際に歌われてきた

誄歌(ルイカ またの名を大葬歌(オオミハフリノウタ)

です。

この歌は古事記ヤマトタケル東征の章に記述されています。

歴代天皇の葬儀ではこの歌が代々歌われてきました。

その歴史を追って行きましょう!

 ヤマトタケルの物語

f:id:Fujisakiand:20200426191359j:plain

ヤマトタケルとは? 名前の由来を探る

ヤマトタケルの名で知られる倭建命、または日本武尊12代景行天皇の皇子として誕生しました。

生まれた当時はヲウスノ命と呼ばれています。

ヲウスノ命は景行天皇から現在の九州地方を拠点としていた熊襲(クマソ)の討伐を命じられます。

「西の方には朝廷に服属しない野蛮な者たちがいる。だからそのものどもを打ち払いなさい」ヲウスノ命は朝廷内でも猛々しい性格の持ち主でした。

これには景行天皇も恐れを成したと伝えられています。

西へ向かわせたのはヤマトタケルを朝廷から遠ざけるためでした。

いずれは景行天皇でさえも凌ぐ勢力を持つ事が危惧されていたのでしょう。

 

九州地方にはクマソタケルと呼ばれていた二人の兄弟がいました。

女装してた近づいたヲウスノ命は、隙を見てクマソタケルの兄弟を取り押さえます。

すると、弟のタケルが言いました。

「その刀を動かさないでください。今ひとつ、貴方様に申し上げたい事があります」

ヤマトタケルはしばしの間、これを許して拘束を緩めました。

「貴方様はどなたでいらっしゃいますか」

「私は纒向の宮にて天下をしろしめすスメラミコトの皇子だ」

ヤマトタケルは兄弟からの問いにこのように答えました。

その時、同時に「ヤマトヲグナノ王」と名乗っています。

朝廷からの名で討伐に参じたことを兄弟に伝えると、兄弟は納得したように答えました。

「西の方には我ら兄弟以外に強い者はいません。ところが大和の朝廷には貴方様のようなお強い方がいらっしゃる。そこで、私たちは貴方様のことをヤマトタケルとして崇めさせてください」

ヤマトタケルはこれを聴き終えると、兄弟の背中から尻にかけてを引き裂き尻に剣を刺して切り殺しました。

それ以後、ヲウスノ命はヤマトタケル日本武尊/倭建命)と讃えられるようになりました。

ヤマトタケルの東征

ヤマトタケル出雲国にも出兵し、現地のイズモタケルを殺しました。

ここの章は大和朝廷VS出雲一族の神話の融合性が図られている場面なのですが今回は省略します。

景行天皇は再びヤマトタケルに出兵を命じます。

それは東国の蛮族を討伐する詔でした。

柊木の長い矛を授けられ、いよいよ討伐に乗り出します。

景行天皇はまたしてもヤマトタケルを朝廷から遠ざけようとしました。

ヤマトタケルのその残虐性に、天皇も相当肝を冷やしていたのでしょう。

ヤマトタケル自身も、伊勢神宮参拝のおりに叔母のヤマトヒメノ命にその胸中を明かしています。

天皇は何度も何度も私に出兵を命じては私を遠ざけようとしている。天皇は私なんか死んでしまえと思っているのだろう…」

その時、叔母から励ましの印として草薙剣を授けられます。

 

途中、尾張国の国造の祖先の家に立ち寄ります。

そこの娘であるミヤズヒメと結婚の契りを交わそうとしましたが、東征の完了を待つことにしました。

 

ところで、静岡県焼津市の地名の由来はあまりにも有名ですよね。

現地の国造がヤマトタケルを騙して誘導し、草野に火をつけました。

しかし、ヤマトタケル草薙剣で草をなぎ倒し危機を脱します。

私は静岡県が故郷なのですが、草薙総合運動場は高校時代によく行きましたね。

そこから、「吾妻」の起源となった物語であるオトタチバナヒメの入水」などを経て、蝦夷を次々と討伐して行きました。

そして、尾張国で結婚の約束をしたミヤズヒメのもとへ戻ってきました。

ミヤズヒメとの契りを交わしたヤマトタケルは彼女に草薙剣を託し伊吹山の神を討ち取るために再び出かけました。

 

伊吹山とは現在の岐阜県滋賀県に跨る標高1377メートルの山です。

「ここの山神は素手で討ち取ってやる」

そう言ってのけたヤマトタケル

少し、調子に乗っていたのでしょうか…

それとも、新婚ホヤホヤで浮かれていたのかもしれません。

ヤマトタケルは山神からの激しい攻撃に襲われます。

雹を降らせた山神はヤマトタケルを完膚なきまでに叩きのめしました。

よろよろになってたどり着いた三重村と呼ばれる場所で、ヤマトタケルは四首の歌を詠じます。

この一つが「大和は 国のまほろば」で始まる歌です。

ヤマトタケルは故郷の大和の情景を思い浮かべていました。

歌い終わると、ヤマトタケルは遂に薨去しました。

ヤマトタケル薨去

ヤマトタケル薨去はただちに諸国を駆け回り、その知らせは大和の朝廷にも伝わりました。

そこで、大和からは多数の后や御子たちが東に降ってきました。

御陵を造り奉り、その周りの田んぼを回って歌を歌い始めます。

この歌が誄歌です。

白鳥になったヤマトタケルと歌われた誄歌

f:id:Fujisakiand:20200426191505p:plain

誄歌(大葬歌)歌詞全文と意訳

①なづきの田の 稲幹(いながら)に 稲幹に

這い廻ろふ(はいもとろう) 野老蔓(ところづら)

 

御陵の近くの田んぼの稲の茎に絡まる蔓(つる)のような

わたしたちよ

 

②浅小竹原(あさしのはら) 腰なづむ

空はいかず 足よいくな

 

低い小竹(しの)の原を行こうとすれば

腰に絡まって歩きづらい

鳥のように空も飛べない 足で歩くもどかしさよ

 

③海が行けば 腰なづむ 大河原の

植ゑ草 海がはいさよふ

 

海を行けば腰に水が絡まって歩きづらい

水草のように揺れて 海の中では歩きにくい

 

④浜つ千鳥 浜よは行かず 磯伝ふ

 

浜の千鳥は歩きやすい浜では飛ばない

岩の多い磯伝いに飛んでいくことだろう

 

*次田真幸『古事記(中)』を参考に作成

誄歌(大葬歌)誕生の経緯 

これらの誄歌は白鳥となって飛んでいったヤマトタケルの霊魂を追いかけていく人々を歌ったものといわれています。

 

①の歌を見てみましょう。

これは御陵の周りで后や御子たちが嘆き悲しむ様子が歌われています。

御陵を囲み、嘆き悲しむことは古代の葬送儀礼の一つでした。

すると、ヤマトタケルの霊魂は后や御子たちのよって造られた御陵から白鳥になって飛び出しました。

后や御子たちはそれを追いかけて行きます。

②の歌では追いかける際に草や蔦が腰に絡まり、后や御子たちの苦労が描かれています。

 

白鳥となったヤマトタケルは海に出て行きました。

③の歌は海水が前方を阻む中でも、懸命に追いかけていく様子が見られます。

④では苦労している后や御子たちをよそ目に浜に飛んでいた千鳥に思いを馳せている景色が歌われています。

 

やがて白鳥は河内国に降り立ちました。

后と御子たちはそこに御陵を築きましたが、白鳥となったヤマトタケルは再び天高く飛び立ってしまったと伝えられています。

歴代天皇の大喪儀で歌われた誄歌(大葬歌)

f:id:Fujisakiand:20200426191733j:plain

近代の大喪儀での誄歌(大葬歌)

古事記にはこの誄歌(大葬歌)が以後歴代天皇の大喪儀で歌われてきていると説明しています。

しかしながら、仏教が伝授されそれが許容されてくると葬儀はもっぱら仏式となっていきました。

その大役を担ってきたのが、京都は月輪山の麓に大伽藍を築いている泉涌寺です。

しかし、長期にわたって大喪儀を担当してきた泉涌寺も、明治維新後はその役目を任されることはありませんでした。

新政府は皇室の儀式を神道で統一していきます。

 

そして、初めて誄歌が奏上されたのは明治天皇崩御の際でした。

長い間途絶えていた儀式でしたので、新政府内でも綿密な調査が繰り返されていきます。

明治になって整備された誄歌は必ずしも古代の曲調を備えているものではありませんでしたが、和琴のみで詠じられる誄歌は古風ゆかしい哀調を帯びた曲となっています。

昭和天皇の大喪儀で誄歌がTV中継


【皇室】 昭和天皇大喪 1/3 1:42:13より誄歌が詠じられている

 

明治天皇崩御は新聞で知り、大正天皇崩御はラジオで聞き。そして、昭和天皇崩御はテレビで知った」

という言葉があります。

歴史によって天皇崩御は様々な形で国民に知らされました。

近代以降の皇室は「皇室葬儀令」と呼ばれる法令をもとに運行されていきました。

現在においては、この法律は廃されてしまいましたが、一部受け継いでいる儀式が多々あります。

 

さて、昭和天皇崩御に伴う儀式は非常に綿密な計画が練られていきました。

憲法が指定する政教分離の法則を侵犯しない事に細心の注意が払われていきます。

皇室行事である「葬場殿の儀」から国事行為としての大喪の礼への移行は、鳥居が外されたり神道葬儀で扱われる大真榊の排除などが短い時間の中で行われました。

 

このうち、誄歌(大葬歌)が奏上されたのは「葬場殿の儀」においてでした。

 

近代以降の皇室では、天皇及び皇后の葬儀の際に歌われています。

天皇の葬儀を考える 神話の事実性と仏教許容 

f:id:Fujisakiand:20200427022521p:plain

天皇は実に臨機応変だと思います。

蘇我氏物部氏の仏教受け入れ論争に始まる天皇家の仏教への崇拝は、およそ126代の伝統を自称する皇室にとって最も長くにわたって信仰されてきたものでした。

しかし、その中でも神道への崇拝を捨てることはありませんでした。

むしろ、神道の中に仏教を取り込んでいったのです。

本地垂迹説を語る時、必ずしもそうではないことが言われますが、その本地垂迹説が最も良い例を私たちに示しています。

仏教を神道に絡めてでも提示したかったこの説は、日本人がどうしても神道から離れられないことを表しているのではないのでしょうか。

近代以前、皇室の年中行事は神道色の強いものと仏教色の強いものが交互に行われていました。

皇室が仏教に傾倒していたら、行えないものでしょう。

神仏習合の中でも日本人は独自に形を変容し、受け入れやすい体制を築いてきました。

これは日本人が最も得意とすることですよね。

それを天皇家は代々にわたって継続していったのです。

 

ヤマトタケルの実在性は乏しいものと思われています。

大和政権が行なってきた全国平定の過程を、ある一人の英雄を作り上げてそれに託したということです。

ヤマトタケルは武勲あふれる日本の英雄のイメージが目立ちますが、その一方でクマソタケルやイズモタケルの残虐な殺し方は彼のの部分を映し出しています。

最後には、武器を持たずに山神に立ち向かいますが、雹に襲われて無残な最期を遂げました。

まさに、古事記ヤマトタケルを色々な意味を含蓄させながらも、悲劇的な主人公として演出しているのです。

 

日本書紀古事記の間でも、ここの部分は記述が一致しません。

誄歌が記されているのも古事記のみです。

物語性が強くにじみ出ている古事記は大いに脚色の疑いがあるものでしょう。

 

そして、実は誄歌(大喪儀)とはただの「恋愛歌」であるという指摘も存在します。

古来から歌い継がれてきた恋愛歌をヤマトタケルの物語へさらなる哀調を帯びさせるために、追加されたものとも言われています(次田真幸『古事記(中)全訳注』)

 

 

現在のところ、誄歌が最後に歌われたのは平成12年(2000年)の香淳皇后崩御の時でした。

 

天皇・皇后へ向けた神話由来の鎮魂の歌である誄歌(大葬歌)。

 

今回はヤマトタケルの物語と同時にご紹介させていただきました。

 

王室研究会 藤原

 

 

参考文献

宇治谷孟日本書紀(上巻)(下巻)』講談社学術文庫

次田真幸『古事記 (上)(中)(下)』講談社学術文庫

笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』中公新書 

北島静波『天皇陵総覧』新風舎

皇室辞典編集委員会『皇室辞典令和版』角川書店