王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

歴代天皇残虐列伝 雄略/武烈/陽成 〜悪帝と呼ばれた天皇たち〜


こんにちは。藤原です。

今回、私がお話しすることは全て歴史書に伝わるところの内容です。

一部不快に感じられる部分もあるかもしれません。

お先に、お詫び申し上げます。

それでは、心の準備ができた方から下へスクロールをお願いします。。。

 

 

 

21代雄略天皇 身体を切り刻み桶に捨てた

 

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21代雄略天皇
雄略天皇の生涯

古代天皇の中では比較的有名な方なのではないでしょうか。

江田船山古墳出土鉄剣や稲荷山古墳出土の鉄刀には「ワカタケル大王」と刻まれています。

これが雄略天皇です。倭の五王「武」に当たりますね。

先代の安康天皇は殺されていました。犯人は眉輪王です。

しかしこれは無理もなかったのかもしれません。

何故なら、安康天皇は眉輪王の父である大草香皇子を殺しているからです。

天皇にとって皇子は叔父にあたりました。眉輪王は復讐のために天皇を誅する事にしたのです。

しかし、復讐の連鎖は続きます。今度は安康天皇の弟である雄略天皇が眉輪王を殺します。

そして、雄略天皇は疑いの念の矛先をあらゆる人々に向けていきます。

事件に関与していたとみられる同母の兄を殺害。

さらには葛城氏の母を持つ従兄弟の市辺押磐皇子御馬皇子の兄弟を殺し尽くします。

 

葛城氏の影響が皆無になったところで、天皇は即位しました。

 

治世には朝鮮半島政策にも力を入れていきました。

また、先述の鉄剣鉄刀の出土場所からこの時代には大王政権は関東から九州にかけて勢力を拡大していたことがわかります。

雄略天皇の残虐伝

眉輪王は家ごと焼き払われました。

王は娘の領地を献上することで許しを乞いましたが雄略天皇はこれを無視します。

また王は「皇位など望んでいない」とも弁明したそうですが多数の軍に囲まれ無惨な最後を遂げました。

市辺押磐皇子は密かに安康天皇から次の天皇に任命する勅命を受け取っていたそうです。

雄略天皇はこれに激昂し皇子をバラバラに切り刻み馬の飼い桶へ放り投げ土に埋めました。

後に市辺押磐皇子の皇子であった23代顕宗天皇は父のために雄略天皇の陵墓を破壊しようとします。

しかし、兄である24代仁賢天皇に諫められ実行には至りませんでした。

 

雄略天皇は『日本書紀』では

悪徳天皇

有徳天皇

双方の記録が見えます。

出土された鉄剣や鉄刀にその名前が刻まれていることや倭王武として朝鮮半島経営に乗り出していったことなどが判断を左右させているのかもしれません。

 

歴史的大事業を行いながらもその一方で悪行を尽くしていたのでしょうか。

 

また天皇の時代には皇后が蚕を飼うことが歌われています。

現在でも宮中で皇后によって養蚕が行われていますがこれが起源のようです。

近代の宮中での養蚕は孝明天皇の女御である英照皇太后が始めたものです。

 

神宮に外宮として豊受大神が祀られたのもこの時期だそうです。

 

25代武烈天皇 妊婦の腹を裂き胎児を見る

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25代武烈天皇
武烈天皇の生涯

武烈天皇24代仁賢天皇の皇子です。

裁判を処断する事に長けており無実を見抜くことがうまかったと伝えられています。

また、法令に明るく処罰をすることに興じていたそうです。

仁賢天皇崩御すると大臣の平群真鳥が国政を論断し始めました。

皇太子の宮を造営すると言いながら自らの邸宅を築き上げその行いには節度がなかったようです。

天皇はたまたま平群真鳥臣の子息であった(シビ)と同じ女性に恋に落ちてしまいます。

その女性は物部麁鹿火の娘であった影媛でした。

影媛は天皇からの誘いを断れず天皇の元へ向かいます。

ここで武烈天皇と鮪の壮絶な 恋愛頭脳 恋のバトルが繰り広げられました。

 

命に関わる「恋のバトル」です。その怒りの矛先は平群真鳥に向けられていきます。

 

天皇は恋敵の父親を殺そうとしました。

恋敵と言っても、将来天皇になるお方ですから鮪の方も少し自重しろよ!って感じですが。

武烈天皇大伴金村連に命じて平群真鳥親子を滅ぼしました。

 

そして、天皇はようやく即位を果たしました。

 

子供を授かることがなかったようです。そのためか、後世に名を残すため「小初瀬の舎人」を設けました。即位した印を残していきます。

 

8年の在位の後、泊瀬列城宮で崩御しました。

武烈天皇の残虐伝 

「武烈」という諡号がどことなく猛々しさを感じさせますよね。

悪行の数々は特に『日本書紀』の方に目立ちます。

ここではその一部を紹介します。

 

天皇が大変刑法に明るいことは先に述べました。

しかし、同時に極刑も好みました。

極刑を見る事に娯楽を感じていたようです。

妊婦の腹を裂きその中の胎児をみました。

人々に爪を剥いだ状態で山芋を掘ることを強要させています。

夏には人を桶の中に入らせて外に流れ出てきたところを串刺しにしています。地獄のウォータースライダーです。

女たちを裸にさせて馬と交尾もさせました。

女の陰部を調べて潤っているものは殺しそうでないものは奴隷として扱ったそうです。

日夜女と酒に溺れ、その暴虐は止まるところを知りませんでした。

 

全て『日本書紀』からの抜粋です。一方で古事記にはこのような記述は見られません。

 

武烈天皇はその残虐ぶりからか、子供を残すことなく崩御しています。

そこで大伴金村はしかるべき皇位継承者を選定するため北陸にいた継体天皇を擁立します。

 

この継体天皇あたりは王朝交代説などが飛び交う非常に複雑な時期です。

継体天皇が即位後になかなか大和入りを果たせなかったことから武烈天皇で皇統が絶え、河内地方の勢力が大和を平定したのではないかという説も存在します。

 

そのためもあってか、あえて武烈天皇を悪帝に仕上げているのではないかという疑いもあります。

それとも武烈天皇があまりのも悪逆だったので崩御後に皇位継承争いが発生してしまったのかもしれません。

 

「継体」という諡号が意味することとは…。

淡海三船に直接訪ねてみたいところですね。

 

57代陽成天皇 小動物に悪戯をし殺して遊ぶ

 

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57代陽成天皇
陽成天皇の生涯

少し時代が飛びましたね。

57代陽成天皇56代清和天皇の皇子として誕生しました。

時代は藤原氏による摂関政治の幕開けが近づくころ。

平安京にも慣れてきた季節です。

陽成天皇清和天皇の禅を受け9歳という幼さでの即位でした。

この時期には清和天皇から10歳にも満たない幼帝が擁立されていきます。

藤原氏の策略は56代清和天皇から始まっていきました。

 

少し清和天皇について見てみましょう。

 

清和天皇も9歳で即位しました。

母方の父は藤原良房です。

天皇にとっては祖父に当たりますね。

外戚政治の圧力のもと、文徳天皇が推薦していた惟喬親王を差し置いてでの即位でした。

良房は摂政に就任し、政務を代わりに執ります。

この時代はまだ藤原氏の体制は盤石とは言えませんでした。

権力を掴むため、ライバルを次々と蹴落としていきます。

応天門の乱などの藤原氏の他氏排斥事件はこの時代です。

 

清和天皇は晩年には仏門に帰依していきました。

今は嵯峨野の水尾陵に眠っています。

 

さて、陽成天皇です。

先帝は27歳の時に譲位をします。

それを受けて天皇が9歳で即位したことは前述しましたね。

天皇の時代には母の兄である藤原基経が台頭していました。

基経は後に59代宇多天皇とあの有名な阿衡の紛議を起こしています。

長期にわたって政権を握り続けました。

 

天皇の宮中での奇行が目立つようになってきたそうです。

そんな天皇はある日、大臣に書簡を渡し譲位したい旨を伝えました。

 

9歳で即位した陽成天皇は大人たちの権力闘争を一体どのような目で見つめていたのでしょうか。

 

譲位後は出家し、崩御の際には神楽岡東陵に埋葬されました。

 

陽成天皇残虐伝

陽成天皇は小動物を殺すことを繰り返し、それを遊戯として興じていたようです。

また、宮中では馬を乗り回し暴れました。

乳母に手をあげるなどの乱行が絶えず基経も手に負えない状態だったといいます。

 

正直、陽成天皇は哀れな帝だと思います。

前述の雄略・武烈は成人を果たして即位していました。

しかし、陽成天皇9歳という幼さの中で大人たちの権力闘争に巻き込まれたのです。

純粋な天皇の心に影が差し込まれ、悪帝と後世に広げられたのであればただただ残念ですね。

 

また、陽成天皇は譲位ではなく退位させられた可能性もあります。

こちらの方が定説でしょう。

藤原氏の手に追えなくなってきたことも、退位させられた原因の一つと考えられます。

 

次代には58代光孝天皇が即位しています。

55歳での即位でした。

傍系から迎えられ、高齢で政務にも興味を示さなかったといわれています。

 

藤原氏にとってこれ以上都合の良いことはなかったことでしょう。

 

悪帝を考える

 

私は悪帝を批判しません。

それは歴代天皇すべて悪帝であり聖帝であると思うからです。

天皇だって人間です。

間違いも起こしますし結果として善政を築き上げることもあります。

悪帝の批判をしそれを理由に伝統の破壊を拒むことは許されないでしょう。

それが許されるなら現存するほとんどの君主国の君主は「殺戮者の子孫」になるのではないでしょうか。

 

ただ歴史学として悪帝と呼ばれた天皇を扱うことは大いに意義があることと感じます。

悪帝の背後では大きく歴史が動いています。

武烈天皇の後には皇統が途絶え応神天皇の5世孫とされる継体天皇が即位しています。

陽成天皇の後には54代仁明天皇の皇子であった58代光孝天皇が高齢で即位しています。

 

いずれも悪帝の次は傍系から即位されていますね。

 

雄略天皇も皇子である清寧天皇を挟んで皇統が途絶えています。

そこで明石で牛飼いをしていた二人の皇子が天皇に立ちました。

それぞれ23代顕宗天皇24代仁賢天皇です(ここは近日詳細を追っていきます!お楽しみに!)。

 

古代の天皇は強大な権力の中で悪帝が発生しやすかったのかもしれません。

 

 

今回お話しできたことは悪帝の中のほんの一部だと思います。

天皇の歴史は全体を見回して初めて気づくものがたくさんあります。

 

今後も研究に精進していきたいと思います。

 

ここまでのご精読、誠にありがとうございました!

 

 

王室研究会 藤原

 

参考文献

宇治谷孟日本書紀(上巻)(下巻)』講談社学術文庫

次田真幸『古事記 (上)(中)(下)』講談社学術文庫

笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』中公新書 

北島静波『天皇陵総覧』新風舎

皇室辞典編集委員会『皇室辞典令和版』角川書店

 

その他多数の著作も参考にされていますがここでは主なものを列挙させていただきました。