王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

帝国日本の皇族と韓国李王家三代【後篇】 〜大日本帝国と大韓帝国〜 

本記事は後編です。前編は下記よりどうぞ!

 

oushitsukennkyu.hatenablog.jp

 

続きまして梨本宮と李王家に移ります。

 

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年表

ここでは簡単に二人の生涯を追っていきます。

まず、 先に李垠が生まれます。その数年後方子梨本宮第一皇女として生まれます。

伊都子と守正王初の子供という事です。

その後二人は結婚することになりますが、それまでには梨本宮や日本政府の様々な思惑、朝鮮側の葛藤などがありました。

方子と同時期には他の皇族からも女王や内親王の誕生がありました。

その代表的な人物がのちの昭和天皇妃である香淳皇后でこと久邇宮良子女王でした。

一つ下のクラスではあったのですが、昭憲皇太后に気に入られていたこともあったようで、昭和天皇の妃は久邇宮家で決まる運びになりました。

梨本宮家としては、というより、全傍系宮家の女王は嫡流本家の天皇の妃になることが何よりも名誉なことでした。

特に方子の母である伊都子はその思考が強かったようで、なんとしてでも方子を皇族の妃とすることを望んでいたと言います。

当時、良子と同世代である方子が比較的年も近い昭和天皇、当時はまだ東宮ですが、そのお妃候補になることは自然なことでした。

しかし、 それより前に方子は朝鮮王世子李垠との婚約が内定してしまいます。

これには梨本宮家の焦りや先ほど行った政府の思惑がありました。

 

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梨本宮家と李家 略系図

 

まず、ここで略系図を確認していただくとわかりますが、方子の母親である伊都子は佐賀鍋島家出身ということです。

佐賀とはつまり肥前のことで、これに薩摩、長州は警戒したんですね。

方子が仮にも皇后となった場合、皇后の母親の出身は肥前(佐賀)ということになります。

薩長からしたらこれを契機に鍋島家が台頭してくるのを嫌いました。

 

これが政府の思惑ということです。

 

梨本宮家の焦りとは伊都子は先ほども述べた通り皇族に嫁がせたい思いが強いということで、なんとかその道を探りましたがなかなかうまくはいきません。

東宮妃を狙いましたが他の女王たちの他にも五摂家からも候補がいるため、そうなってくると皇族との結婚も難しい様子でした。

そんな時、当時政府の寺内正毅から李王家との婚約を提案されました。

李王家は王族という身分でありながら、当時の皇族予算では考えられないくらいの予算が注ぎ込まれていました。

 

経済的にも安定したところでもあったのです。

 

さらに、仮に結婚してもそのほとんどを日本で暮らすと言ったことがなされるということをきいて、 梨本宮家は李垠との婚約に踏み切りました。

伊都子が今の上皇陛下が上皇后美智子さまと婚約した時に

「平民の分際で...日本ももう終わった」

などとつぶやいていたということですから、よっぽどの家柄を望んでいたことは事実です。

政略結婚と認知されてもいますが、実は梨本宮の希望で叶った結婚だったのです。

その当時、今もそうですが皇室は絶対的純血主義であった ので、朝鮮人との結婚は危惧されていましたが、これをはじめとして日本人と朝鮮人の結婚が増えてきます。

方子と李垠の結婚は朝鮮人と日本人の融和をアピールし、同化政策を助長していたということも事実です。

而して、後世に政略結婚と歌われてしまうことになるのだと思います。

 

李王家側というと、今回の婚約に対して高宗(李太王)が反対していたと伝えられています。

李垠と方子の結婚が決まって間も無く、李太王が薨去します。

反対していたの意味ですが、この李太王の薨去には自殺説憤死説が当時から出ていました。李太王は密かに日韓併合に反対しており、自分の子供でもある李垠が日本の皇室と婚約していたことに対する最後の反対だったという説が韓国民衆の中で広まっていました。

また、朝鮮総督府による毒殺説も出ていました。

侍医が命令によっ て毒を持ったとされておりその理由がパリへの密使事件と方子との婚約に反対していて日本側にとっては邪魔な存在だったからということです。

これには伊都子も賛同しており、この事件が朝鮮民衆に漏れ独立運動につながったといっています。

韓国で連載された『歳月よ王朝よ』では安商鋼の犯行としています。

屍から肌肉がむき出しになっており、そのことは毒殺を当時は意味していたようです。

結果的に賄賂に溺れて犯行に及んだとしていますが、色々な説があるのでいまだによくわかっていません。

ただ、この時主犯とされていた長谷川好道総督と宋氏の李太王危篤に対する談話が東京日日新聞に残っていたようです。

この内容は李太王の前後の様子が述べられ ており、病気による危篤をやけに強調していることから首犯という見方はあながち間違えないと いった意見もあります。

 

そんなわけで方子は李垠と結婚しますが、今もそうみたいですが朝鮮は夫婦別姓が普通でした。

女性は結婚してもその家族に入るというわけではなく、性を変えることはありませんでした。しかし方子は結婚後、李という名字を名乗っていますからこれは朝鮮の慣習に習っているものではありませんでした。

韓国皇室でも高宗の正室閔氏、純宗の正室尹氏といってどれも別姓を名乗っていました。天皇家には名字もありませんから事実上の降嫁ということになれば李性をもらうのが妥当であると思いますが、当時の韓国民衆は違和感を感じていたようです。

この結婚には日韓の差別撤廃を広報していったそうですが実態は日本による韓国統治の正当化のためでした。

二人の子供をもうけた李夫妻は第一子であるの夭折を朝鮮で見届けます。

これにはまた、毒殺説が存在します。直前に飲んだ牛乳が死因とされていました。

しかし、その当時の韓国側の証言を本田節子氏によると、ほとんどが毒殺説を支持しているといいます。

李太王毒殺の仕返しと いったり、閔甲完の怨恨説があったと言います。

また、日本側が方子は石女であるといっていたのに男子を生んだので将来独立の卵子とならないように毒殺したという説があリます。

しかし、 方子は石女ということは方子自身も否定しています。

これにも定かな説はありませんが日本側の医師である池田が死期を早めたという記録も残っています。

第二子であるが生まれたのはそれから数年後のことでした。

そのちょっと前に李夫妻は欧州へと歴訪します。

その前年には東宮摂政宮殿下であった昭和天皇とほとんど同じルートでした。

この李夫妻の訪問は日本政府のある意図が込められていました。

それは全世界に対して韓国は日本に併合されたといいう事実の宣伝のためです。

李夫妻はいく国々で日本人として勲章を授かり、 日本の皇室として歓迎されました。

それは、北欧訪問の時当時ロシア関係が悪化していたスウェーデンなどでは日露戦争に勝利した日本を英雄視している傾向があり、そこでも李垠、方子は日本人として大歓迎を受けたと言います。

そして勲章を授与するたびに昭和天皇が礼伝を送っていたことからも、プリンス=リーは日本国天皇に属していることを示していったのです。

そして、 その帰国から数年後、が誕生します。

その2年後には今の上皇陛下であられる継宮様が生まれます。

比較的年の近いこの二人と賀陽宮章憲王文憲王伏見宮博明久邇宮邦昭王東久邇宮俊彦王らはそばで継宮を支えていったということです。

また、玖は皇族子息たちとともに工場視察などにも行き、休日遠足などを返上して工場での作業を行ったことは当時の朝日新聞で報道されているようです。

これらの活動は朝鮮民衆にも広く報道されていきました。

 

そして時は流れて泥沼の15年戦争に突入していきます。

15年戦争とはつまり、盧溝橋事件から始まり八月十四日のポツダム宣言受諾の日本無条件降伏までの間の事ですが、この時の朝鮮王公族達の行動、ここでは李垠について見ていきます。

李垠はというと、盧溝橋事件発生の2年前、22・6事件の鎮圧に参加していました。

この時李垠は参謀総長であった閑院宮載仁親王が小田原に引きこもっていて高松宮の催促でようやく上京した時、 皇族王族の方々に出勤を煩わすのはいかかがなものか、という意見もあった中前線へと赴いたという事です。

この事件は昭和天皇の逆鱗に触れた事でも有名でしたが、陸軍の無能ぶりを見 て、「朕自ら近衛師団を率いてこれが鎮定に当たらん」と言いました。

この時李垠は、ラジオで勅命が発せられた時、「これを聞いて何も感じないものは日本人では無い」と漏らしたそうです。

支那事変に際しては李垠は陸軍少将として中国に赴任しています。

共産党軍と戦闘している第一軍の竹田宮恒徳王と面会します。

各師団の視察を繰り返し、新京では満州国皇帝溥儀と面会し て、1940年には中将に任じられています。

皇族の昇進ははやく、王公族も同様だったと言います。

朝香宮鳩彦(やすひこ)、梨本宮守正、東久邇宮稔彦、諸王殿下たちも20年ほどで中将になっています。

終戦が遅ければ、李垠も最高位まで上り詰めていたという事です。

最終的に第一航空軍司令官となり特攻作戦にも関与していました。

その時、

「陛下には申し訳ない。もうわが国の飛行機はb29の高さまで体当たりできる飛行機も燃料も無くなってきた」

と吐露したそうです。

ここの「わが国」というのはとても印象的です。

また李垠は戦意高揚のために航空軍の歌を作って皆に配ったそうです。

熱心に指導し、部下を可愛がって上官にも忠誠だったという事です。

そして、1945年8月15日正午、終戦詔書玉音放送があり、日本は終戦を迎えます。

 

今回は戦前編ということで完結できずに申し訳ないです。

戦前のみの考察となりますと、二人の皇帝、つ まり高宗と純宗は前半で追いましたが、この二人は韓国人から日本人へとなったものたちです。

 

心の中には常に韓国独立の野心がありながらも日本に服従し、安定的な生活を送りたいという思いが交差していたと思います。

 

今回の調査から、この二人には隙あらば独立の思いがあったことがわかります。

日本の待遇は極めて朝鮮側に譲歩しており、李王家に対する支出は普通の皇族よりもはるかに多かったですが、ハーグ事件やパリ密使事件、特にパリ密使は高宗の薨去直前であ り、3・1独立運動の機運も高かったので、高宗が独立したいという思いは最後まで持ち続けていたと思います。

そんな二人に対して李垠は生まれた時から、というよりも物心ついた時には日本人でした。

わずか10歳で日本へと渡り日本語を巧みに使いこなし、日本の皇族と結婚しました。

帝国陸軍への従軍や22・6事件、15年戦争などに対して天皇に対する絶対的忠誠を誓っていました。

 

これら二人と一人の王公族は表面上と裏面状を使い分けていた高宗と純宗、根からの李垠の日本に対する服従は全く違うものがあります。

 

戦前ではここまでしか説明できませんが、また戦後になると王公族は廃止され、11宮家も皇籍 からを降下させられ伊都子も守正王も一般人となります。

 

李夫妻や梨本宮改め、梨本家の苦労はここからまた始まります。

 

総括 ~戦前の日本と朝鮮王公族を振り返って~

 

日本の朝鮮統治の中身を見るに、二文字で表すと「同化」であると思う。

それが創氏改名や土地調査事業に関する民衆に対してもそうだが、韓国皇室に対しても同様である。

この同化には融通のきかないところもあり、高宗の国葬はそれに当てはまるだろう。

相手国の文化を尊重しなければ植民地民は反乱を起こす。然れど、自分たちが併合したことの事実は思い知らせなければならない。

日本の場合、天皇は絶対的に頂点であるということである。

元の中華統治は当時の日本にとっては参考になるべきところもあったのかもしれない。

二人の皇帝は心は韓国人、されど体は日本人

一人の王世子は心も体も完全な日本人となった。

 

戦後、地位も今までの生活も失っていった李垠と方子。次にはそのことに関してさらに探求していきたい。          

 

 

参考文献

新城道彦『朝鮮王公族の歴史 帝国日本の準皇族』 中公新書   2015年

小田部雄次 『李方子 一韓国人として悔いなく』ミネルヴァ書房 2007年            

司馬遼太郎『韓のくに紀行 街道をゆく2』 朝日文庫    1978年 

(紀行なのであくまで参考にすぎない)            

笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』 中公新書 2001年

国際時事アナリスツ『日本人のための朝鮮半島の歴史』KAWADE夢文庫 2018年

写真1https://ameblo.jp/ume-ume-co/entry-12442806882.html                                

写真2http://www.hanabitour.com/tv/tv_detail.html?no=787

                      * 各年表、図は上記の参考文献を元に作成

 

以上で発表を終わります。

 

 

令和元年6月某日 報告 

 

 

いかがでしたでしょうか?

6月ほどに行われた少人数演習での発表原稿でした。

 

日本と朝鮮半島が歩んできた歴史はその全てとは言い切れなくとも大部分を共有している間柄だと思います。

韓国が併合された以上、そこから1945年までの朝鮮半島の歴史はある意味、日本の歴史なのです。

 

今一度、韓国の歴史が注目されていくことを望みます。

 

王室研究会 藤原