王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

帝国日本の皇族と韓国李王家三代【前編】 〜大日本帝国と大韓帝国〜 

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こんにちは。統轄の藤原です。

今回はすこし閑話休題ということで。

私が一年生の時に少人数演習で発表した

「李王家と梨本宮家」

という題で発表した研究原稿です。

最初に申し上げておきますが、とても研究発表などと称されるようなものではございません!

原資料にあたってない…。

日本人の立場でのみ…。

一年生の時に課せられる自己紹介も兼ねた発表ですので、内容に関してはあらかじめご留意いただければ幸いです。

明治大学・文学部史学地理学科の新入生はこのような発表が課せられる場合が多いです!

私のものを参考にしてはまずいですが概観を掴んでいただいければ嬉しいです。

 

本稿は2回に分けてお送りさせていただきます。

また、本記事は発表原稿を元に掲載しているため口語表現が多用されています。

 

詳しいことは拙い本文に任せましょうか。

 

それではどうぞ!

 

 

令和元年6月某日 発表

 

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李王家と梨本宮家 略系図

 

朝鮮と日本というものは切っても切れない関係にあると思います。

 

古代の渡来人は大陸文化を大和政権に伝え多大な影響を与えました。

中世では秀吉の朝鮮出兵、そして近現代には韓国併合

日本史には常に朝鮮半島が関与してきました。

 

今回はその中でも近現代の日本皇室と韓国李王家について見ていきたいと思います。

 

東アジアの研究において、日本と朝鮮と中国を比較していくことは必須なことです。

とりわけ今回の私の研究は現在の皇室問題につながる大変重要な部分であると確信します。

そして、他国を知ってわが国を知ることもできると思います。

 

これらをもって研究の意義としたいと思います。

 

ここでは前半に二人の皇帝と日本の譲歩を見ていきます。

そして後半には梨本宮方子と李垠の関係を見ていきます。

 

レジュメの略系図を適時参照にしてください。

 

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年表

 

年表をご覧いただけばわかると思いますが色々あって韓国は併合されていきます。

その過程まで喋ると尺がないので各自年表も適時参照していただければ助かります。

 

最初に「併合条約発効時に見る席次から読み取れる日本側の譲歩」から参りましょう。

 

韓国併合条約発効時、明治天皇の勅使が韓国の都である漢城に向かいます。

純宗※は昌徳宮で大勲位菊花大綬章と菊花章頸飾(いずれも日本の最高勲章)を身につけて出迎えました。

※純宗は李氏王朝27代君主・大韓帝国2代皇帝です。韓国併合後は日本より”李王”の尊号が与えられました

 

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昌徳宮正殿・仁政殿

 

この時、仁政殿で李王と勅使が中央卓を挟んでそれぞれ東面、西面して着席しました。

 

 

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当時の勅使である稲葉政直式部官はなぜこのような記録を残したのか。

儒教的観念の礼に「天子南面す」という言葉があります。

冊封する場合

北面=中華皇帝(清)

南面=冊封される側の国(朝鮮)

でした。

今回は日本政府の配慮で前代未聞の東西に立つようにしたということです。

これは儒教的礼観念に敏感な韓国人への懐柔を目的にしたと言われています。

日本としては、東アジアの礼観念を重視するよりは西洋近代ルールを尊重したようです。

 

 

新城氏は日本と韓国が対等な立場で結ばれ合意された併合条約であることを世界にアピールすることが狙いだったとのべています。

 

韓国人の自尊心を最大にまで尊重した破格の対応ということでした。

 

そして時は流れて李太王である高宗※薨去した時に問題は起こりました。

 

※高宗は李氏王朝26代君主・初代大韓帝国皇帝。併合によって日本より李太王の尊号が贈られる。純宗は息子

 

先ず、初めに朝鮮王公族で薨去されたのが李熹(略系図参照)でした。

そしてその5年後に李俊が父の後を追うようにして薨去します。 この二者は王公族という中でも公族という身分でありましたから、古式に則って朝鮮式で行われたと言います。

 

日本で言えば、公爵クラスだったのでそこまで慎重に行わなくてもよかったんですね。

それで、のちに李太王である高宗が薨去します

 

年表を見ていただけばわかると思いますが、 1919年の2月に薨去しました。

 

今度は公族ではなく王族ですから前回みたいにうちうちでやるわけにはいきませんでした。

 

李王家の宮内省管理職である李王職の先導で葬儀内容が決められていきます。

 

そもそも国葬とは国家の支出で葬儀をやるわけですからよっぽどの人でなければ国葬に付されるということはありません。

基本的には明治維新で特別の活躍が見られたものや、皇族が国葬に付されます。

国葬の事例でいうと三条実美伊藤博文岩倉具視といった公家出身や維新の英傑などでした。

皇族は有栖川宮熾仁親王です。

東征大総督としての功労も相まって国葬に付されています。

 

しかし、王公族という立場がこの時政府の中でも色々意見が分かれてきます。

李太王(高宗)は李王(純宗)の父親でもあり、韓国併合は彼の承諾によって併合できたのだから国葬に付されるのは当然であるという意見が出てきます。

 

一方で李太王(高宗)はハーグに密使を送り日本の面目を丸潰しにしました(ハーグ密使事件)

また死去する前にパリにも密使を送っていました(パリ密使事件)

 

この前に逝去した桂太郎国葬に付されることがなかったんです。

桂太郎韓国併合条約を結んだ張本人でありながら、併合された側の王様は国葬に付されるのは滑稽であるという意見もありました。

 

この時、原敬は「桂には気の毒だが」とも述べています。

詔書には皇族の礼を持って対応するという理由から李太王の国葬閣議決定します。

 

晩年の桂太郎第一次護憲運動で攻撃されまくってましたから国葬という選択肢もあり得なかったでしょう。

 

こうして李太王の国葬が行われていきますが、この予算は破格ということでした。

当時の額にして10万円であり有栖川宮が5万で大山巌が 3万であったことを考えると大変な額であったことがわかります。

しかし、これは日本式、いわゆる神道式が強制されて行くことを意味します。

日本にもプライドがありますから朝鮮側にここだけは譲歩するわけにはいかなかったようです。

祭壇には榊が供えられるなどその見た目は日本式でした。

 

そしてここでもう一度年表を見てください。

この李太王の葬儀が三一独立運動を起こさせるんですね。

朝鮮で行われた大々的な葬儀ですから民衆も集まってきます。それが現在のソウル・パゴダ公園で爆発します。

韓国の人々の「マンセー」(万歳の意)という声が響く中、葬送が粛々と進められていきます。

 

まるで戒厳令が敷かれたごとくのような街並みでした。

メインの儀式には李完用らや日本人しか参列していなかったといいます。

しかし、墓所までの葬列は朝鮮式で行われたためか、韓国民衆が篝火を炊き、1万 5000人ほどが参列しました。

 

当時の日本政府側の参列者である野田宇太郎逓信大臣

「日本の国葬形式を慣習のことなった朝鮮人に用いるのは日本人にキリスト教の儀式を強いるようなものだ」

と述べています。

私としても全く同感であり、日本政府の植民地運営の下手さが露呈したところだと思います。

 

この後、李王である純宗が薨去した際には日本は朝鮮式で葬儀を行います。

しかし、全てを朝鮮式で行うということはもちろん日本側のプライドも許されないことでした。

 

なによりも、朝鮮は日本が支配しているのですから本当は日本式で行うことが適当です。

しかし、前回の李太王国葬を受け、韓国人への懐柔のために日本は譲歩して今回はそのほとんどを朝鮮式で行います。

ここで重要なのはほとんどという言葉なんですね。

日本は李王薨去直後に元帥の位を授けます。

それは李王の葬列に儀仗隊を組み込むためです。

 

日本の国葬=天皇が特に給うところの大礼

であるということです。

儀仗隊とは矢や弓を持った天皇の威光を司った部隊のことです。

それを葬列に組み込むということはこの国葬は李王の特別の功績を天皇が評価し天皇の直裁によって催されているということを示すためでした。

 

そうして組まれた葬列は、前回とは違って多数の韓国民衆の中を進んでいきます。

 

四神を象徴する四色の旗が翻る中、日本の儀仗隊が列を組んでいます。

そこには元帥刀と元帥徽章(げんすいきしょう)はみこしの前に配置されていたということです。

そうして、葬列はメインの儀式を終えると、墓所に着くや否や葬列から次第に外れていき、以前よりも増えた朝鮮人の目を気にするように縮小されて行ったということです。

 

この国葬の混乱に紛れて事件を起こそうとするものたちがいたそうですが、事前の警察の調査により検挙され、目立った混乱は見られませんでした。

 

こうして、高宗国葬の反省から練られた純宗国葬は一応終了し ました。

 

これら日本の朝鮮統治に対して、私が考察するところは日本は極めて朝鮮側に寄り添っていたが天皇の意向ということになるとそこには一切妥協することはなかったということです。

 

朝鮮側が いくら自身の韓国帝室、今はもう日本の統治下にあるからとは言って、自身のプライドを示そうとしても、日本は韓国併合の当事者であることは覆すことはできません。

 

そして日本政府としては天皇と韓国皇帝の間には超えられない壁があることを示さねければいけませんでした。

 

韓国の皇帝が権威を持つと、三一独立運動のような大規模な暴動に発展しかねないからです。

 

日本統治下の朝鮮二王国葬に見得るものは

・日本側の朝鮮人の懐柔

・日本自身のプライドを守る

というジレンマを抱えながら行われました。

 

次回へ続く!

新城道彦『朝鮮王公族の歴史 帝国日本の準皇族』 中公新書   2015年

小田部雄次 『李方子 一韓国人として悔いなく』ミネルヴァ書房 2007年         

司馬遼太郎『韓のくに紀行 街道をゆく2』 朝日文庫 1978年※

※随筆なのであくまで参考にすぎない            

笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』 中公新書 2001年

国際時事アナリスツ『日本人のための朝鮮半島の歴史』KAWADE夢文庫  2018年

写真1https://ameblo.jp/ume-ume-co/entry-12442806882.html                                  

写真2http://www.hanabitour.com/tv/tv_detail.html?no=787

                      * 各年表、図は上記の参考文献を元に作成