王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

世襲四親王家から即位した天皇 後花園天皇・後西天皇・光格天皇 〜天皇陵制覇の道外伝〜

 

目次

世襲親王家とは?

所領と宮号を子々孫々にわたって相続し親王宣下を受け続ける皇族を当主とする宮家を指します。

江戸時代末までには世襲親王家が存在しました。

 

伏見宮 

北朝3代崇光天皇の皇子である栄仁親王が創立。所領の京都・伏見殿が由来。

 

桂宮

106代正親町天皇の皇子である誠仁親王の皇子智仁親王が創立。はじめ八条宮を称し常盤井宮、京極宮と変遷して119代光格天皇の皇子盛仁親王が相続。その時、桂宮を称する。

 

有栖川宮家 

107代後陽成天皇の皇子である好仁親王が創立。はじめ高松宮を称して継承されていくが3代幸仁親王の時に有栖川宮を称する。以後明治期の有栖川宮10代威仁親王まで継承されていく。

 

閑院宮

113代東山天皇の皇子である直仁親王が創立。幕府侍講の新井白石が朝廷へ所領を献上し勅命を持って閑院の宮号を受ける。閑院宮2代典仁親王の時に尊号事件が発生。光格天皇から今上天皇までは父子直系相続。

 

世襲新王家のうち惜しくも戦前に断絶を迎えたのは有栖川宮家と桂宮家でした。次代に三笠宮崇仁親王の第二皇子である宜仁親王によって桂宮が創設されますが全く別の宮家です。

 

これら4世襲親王家から即位した天皇は歴代のうちに3代存在します。

 

次はそれを見ていきましょう!

 

伏見宮家からの即位・102代後花園天皇

後花園天皇の御世は南北朝の対立が収束に向かった時期でした。後亀山天皇三種の神器北朝へ返還します。100代目として後小松天皇が登極を果たしました。

101代として即位した称光天皇には猶子となる皇子に恵まれず僅かに皇女は二人生まれたのみです。

また、称光天皇は精神に重大な疾患が見られていました。かろうじて天子の玉座についていたのです。

譲位が慣例になっていた中で、譲位を経ずに崩御されたことは異例でした。

ここで皇位継承問題が発生します。

朝廷は崇光天皇の皇子である栄仁親王が創設した伏見宮家に注目します。伏見宮家は2代貞成親王家督を継いでいました。その子である彦仁王が注目されます。

この彦仁王が102代後花園天皇として即位します。弟の貞常親王伏見宮3代目を相続しています。

以後、光格天皇の即位までの天皇は男系として伏見宮の流れを汲むことになりました。一方貞常親王より伏見宮は相続されていき、戦後に臣籍降下した11宮家はこの貞常親王を祖としています。

そうなりますと、現在の皇室と11宮家共通の先祖は伏見宮2代貞成親王ということになりますね。

有栖川宮家からの即位・111代後西天皇 

oushitsukennkyu.hatenablog.jp

良仁親王(111代後西天皇108代後水尾天皇の数あるうちの皇子の一人でした。後水尾天皇は幕府に対して強硬な姿勢を見せ、その報復として興子内親王皇位につかせます。109代明正天皇です。明正天皇後水尾天皇の皇子である紹仁親王(110代後光明天皇への中継ぎの役割でした。

先帝が自身の直系を皇位につけていく姿勢がある場合、このような女帝の誕生が発生します。

光明天皇は元来病弱でした。若くして崩御なされます。

そこで再びの中継ぎを任されたの111代後西天皇です。

天皇は初め高松宮初代好仁親王から高松宮を相続していました。当時は花町宮桃園宮と称されます。

やがて、父帝である後水尾天皇から中継ぎの役目を託されます。すでに宮家を相続していた良仁親王は自身の皇子である幸仁親王に宮家の継承を託します。この時、後西天皇から有栖川宮宮号を下賜されました。

有栖川宮高松宮)から即位した後西天皇112代霊元天皇の成長を見送って譲位しました。

閑院宮家からの即位・119代光格天皇

oushitsukennkyu.hatenablog.jp

118代後桃園天皇は姉宮に117代後桜町天皇をもちます。後桜町天皇は最後の女帝としても有名ですね。姉宮は父帝の116代桃園天皇の遺詔を受けて英仁親王(後桃園天皇)の成長までの中継ぎとして即位していました。

満を辞して即位した後桃園天皇には女子の欣子内親王が生まれますが男子の誕生がありません。

また、後桃園天皇も元来病弱の体でした。

ここで再びの皇位継承問題が発生します。

多数の皇胤は門跡寺院に入寺し出家をしている場合が顕著でした。朝廷は皇位を継承されうる皇子を探します。

そこで閑院宮2代典仁親王の第6皇子である兼仁王を発見します。直ちに皇嗣に立てられました。時に御歳10歳のことです。

詳述は上記の「天皇陵制覇の道」に任せます。 

 

桂宮家から天皇を迎えることはありませんでした。

実はこの桂宮家。少し他の世襲親王家は体裁を異にしていました。

まずその一つにあげられるのがその祭祀を世襲によって相続していた例が少ないことです。

この例は有栖川宮家にも見られます。初代好仁親王から2代目の後西天皇は父子の関係ではありません。叔父と甥の関係ですね。

4代正仁親王までは2代後西天皇の父子直系相続です。しかし、5代職仁親王霊元天皇の皇子です。後西天皇霊元天皇の関係は兄弟ですので4代から5代に渡っての継承は従兄弟間の継承になります。

皇位継承を支えた宮家の意義

現在存在する宮家を数えてみましょう。

秋篠宮家・常陸宮家・三笠宮家・高円宮

この4家が現存しています。しかし、これらの宮家は近い将来断絶を余儀なくされています。

 

常陸宮家当主である正仁親王は現在ご高齢でありかつ宮家を相続すべき男子が存在しません。華子妃との間には一切の若宮を設けることはありませんでした。常陸宮は断絶を余儀なくされています。

三笠宮家は崇仁親王妃百合子を当主としています。三笠宮を創設した崇仁親王は2016年に100歳で薨去なされました。それ以来三笠宮家の家督を継いでいますが、継嗣であった寛仁親王薨去なされます。現在三笠宮家には男子が存在せず断絶が確定とされています。

高円宮家は憲仁親王妃久子を当主としています。親王薨去ののち高円宮家を相続していますが、男子の存在がないため断絶が予定されています。

秋篠宮家に関しては、文仁親王の立皇嗣に伴い皇嗣となっています。(メディア各社には皇嗣ご一家と呼称していただきたい)皇嗣ご一家の長男である悠仁親王は事実上皇太孫の身位を負っています。秋篠宮家の祭祀を保つことは微妙なところでしょうか。

悠仁親王に嫡子に加えて庶子が誕生された場合、その若宮に秋篠宮を相続させる可能性があります。先述の後西天皇の例がそれに当たりますね。

後西天皇高松宮を継承しながらも即位したので自身の皇子に高松宮を相続させた。

 

宮家の発祥は鎌倉時代常盤井宮が初例とされています。宮家、特に世襲新王家は常に宗家としての皇室を最も近い場所で守護してきました。臣下の面を持ちながらもいざという時には皇位を継承する。その立場に置かれていた世襲親王家の皇族は常に緊張感があったものだと思います。

皇族の臣籍降下が進められていったのは52代嵯峨天皇の御世からでした。増えすぎた皇族は朝廷財政を圧迫していたからです。

しかし、目下の潮流を拝しますと、皇室には宗家を守護し皇位を継承すべき宮家が必要です。

宮家を設立することは神武天皇の男系子孫である皇胤が必要です。そしてそれは男子に限られます。

旧宮家の方々を再び九重に返し奉り新たな宮家を創立していただくことが重要に感じられます。

おわりに

宮家から即位したこの三代の天皇傍系という形にはなりますが私はこの傍系という言葉、あまり好みません。

 

皇室は一つの大きな組織であり、私たちはそれ全体を見つめなければいけません。 

私たちが恣意的に皇族を個々に区切って考えるのではなく皇室全体を考察すべきです。

直系、傍系の区別は皇室にとって無意味なものです。

宮家の意義を考えますと、そのように感じられてやみません。 

 

後花園・後西・光格の各天皇の先例を見つめ、今と未来そして過去の皇室を踏まえて考えていく必要があります。

 

明治大学王室研究会 藤原