王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

皇韻を探る#4  輪王寺宮墓地へ奉拝 上野/上野恩賜公園・寛永寺輪王殿

 

こんにちは。

王室研究会統轄の藤原です。

 

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ここでは

  1. 初代神武天皇の子孫である皇胤の研究
  2. その皇胤たちが残した余韻をめぐる旅

をお送りしていきたいと思います。

 

天皇ももちろん皇胤に当たります。このシリーズで天皇を扱う場合はその詳細をすでにシリーズ化されている「天皇陵制覇の道」に任せます。

 

今回は第4回輪王寺宮墓地へ奉拝」です。

それでは参りましょう!

 

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上野恩賜公園

「花は上野よ、柳は銀座。月は隅田の屋形船」

東京音頭にうたわれる一節です。

早咲きの桜が出迎えてくれました。

帝都の繁栄を共にした上野恩賜公園に来ています。

この「恩賜」という言葉。

三鷹の井の頭”恩賜”公園にも見られますよね。

昔は宮内庁が所有していた土地を、旧東京市に下賜したことから”恩賜”の言葉が使われているそうです。

 

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小松宮彰仁親王

上野公園の広場には小松宮彰仁親王が聳え立ちます。

小松宮親王は明治時代に数々の戦績を挙げ官軍を指揮した宮将軍でした。

十一宮家の祖である伏見宮邦家親王の数多の皇子の一人です。

小松宮は継嗣がいなかったため親王の異母弟である依仁親王を迎えます。

どうやらこのお二人、兄弟関係があまり良いとは言えなかったとか。

依仁親王は新たに東伏見宮を創設しました。

ちなみに小松宮宮号と彰仁の御名は明治15年12月に改名されたものです。

以前までは嘉彰と名乗っていました。

 

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上野・寛永寺

寛永寺は家康の側近中の側近である天海僧正(慈覚大師)によって建立されました。

江戸城の鬼門の地にあたる上野の地を守るためです。

そこで天海は思案します。

「どうしても朝廷から親王の下向を実現したい」

幕府にとって西国にいまだに権力を保持し続ける朝廷の存在は目の上のこぶといったところでした。

宮さまが上野の寛永寺に門跡として入寺すれば、幕府にとってはある意味人質を得たことにもなります。

朝敵になることを免れることも策のうちでした。

しかし、何よりも寺に皇胤が入寺することはその寺の権威を一気に底上げします。

京都には数々の門跡寺院が存在します。

それらの寺院は今でも繁栄を辿っていますね。

一方で、皇族が入寺していくことは朝廷のためでもありました。

皇族数が増えすぎると皇室財政が厳しくなっていくからです。

あまりにも皇胤が出家していくため天皇になり得る皇子が減少していったことも事実です。

そこで新井白石はその現状を理解し、閑院宮を創設させたのです。

 

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輪王寺宮歴代墓地

硬い黒扉によって閉じられた先は聖域です。

御堂の端に参道へと導く小さな石畳が伸びていました。

ここにいては何もわかりません。

拝礼を済まし、御堂の中へと入ります。

 

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輪王殿・欄干

中には無料で入ることができます。

線香を供養しここでも拝礼。

この輪王殿は欄干がありますので、少し高くなっています。

ここからなら墓域を拝むことができる…。

中にいらっしゃったお寺の方に襖を開けてもらいました。

大変御丁寧に案内していただき

輪王寺宮さまのお墓ですか?」

と察してもらえました。笑。

しばらく眺めていると

「どのお墓がどの宮さまかわかりますか?」

とお寺の方。

「少し待っててくださいね」

待っていると、手書きで書いたメモ用紙に歴代輪王寺宮の墓域を示したものを私に見せてくれました。

私のように皇韻をたどりにくる方がいらっしゃるのでしょうね。

寛永寺の丁寧な御対応に感激しました。

 

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輪王寺宮第1世・守澄入道親王墓 椿の奥側

輪王寺宮は僧侶の身分でありながらも独立した宮家として扱われていました。

また、それは世襲制と言うわけではありません。

第1世守澄法親王後水尾天皇の第二皇子です。

第2世は有栖川宮家からの即位である後西天皇の皇子、幸智親王です。

後西天皇有栖川宮家第2代当主の幸仁親王の父宮ですが、その後も輪王寺宮後西天皇の皇子が多くその任についています。

そしてまた、輪王寺宮天台座主を兼ねていました。

天台座主とは天台宗の僧侶のトップにあたる役職です。

現在も続いていますが、ある時期は皇室から天台座主を迎えていました。

 

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輪王寺宮墓地

天海の野望は無事に実現していきます。

その後、寛永寺は朝廷から輪王寺宮を迎えていきました。

参勤交代の折には、上野付近を通過する大名は必ず輪王寺宮に拝謁を行うことが義務付けられていたそうです。

そして輪王寺宮裏の役割。

徳川幕府が朝敵の汚名を防ぐために江戸においた皇胤。

およそ200年後に恐れていたことが現実になり始めます。

明治時代に皇族である北白川宮能久親王は最後の輪王寺宮門跡として著名ですが、還俗する前は公現入道親王と名乗っていました。

幕末の混乱期、上野戦争が起こります。

この時親王彰義隊に担がれ、その後東北に移送されました。

奥羽越列藩同盟東武皇帝として擁立されます。

明治天皇を認めなかったのです。

反新政府軍は天海が危惧していたこの事態を輪王寺宮の擁立で回避しようとします。

しかし、時代はそれを許すほどの潮流ではありませんでした。

明治時代になって皇族が門跡寺院に出家することは禁じられました。

以後、北白川宮家は永久王までにわたって続いていきます。

 

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輪王寺宮墓地

江戸に王朝の香りを感じられる場所はここ、上野です。

江戸に住む人々は

・将軍のお膝元であること

・上野の寛永寺に宮さまがおわすこと

に多大の誇りを持っていたと伝えられています。

江戸で生まれ育った人々にとって皇室とはどういった存在なのか。

いまいちピンとくるものでは無かったでしょう。

上野の輪王寺宮こそが王朝の風を感じられる唯一の場所でした。

 

13世まで続いた輪王寺宮門跡。

江戸時代に新たに創設された門跡でしたが寛永寺の繁栄は輪王寺宮あってのものだったと思います。

4代将軍家綱の霊廟が作られて以来、芝の増上寺に並んで徳川幕府菩提寺でもありました。

現在もその御威徳を上野恩賜公園で拝むことができます。

 

今年は桜を介した宴会の自粛が叫ばれています。

しかし、桜を”見にいくこと”自体は大丈夫だそうです。

この記事は緊急事態宣言前に書かれたものです。

 

およそ300年前の人々も、ここの桜を愛でながら宮門跡の威厳に心が洗われていたことでしょう。

 

ぜひ、上野恩賜公園寛永寺輪王寺宮墓地へ足を運んでみてください。

 

王室研究会 藤原