王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

皇韻を探る#2 後醍醐天皇皇子・大塔宮護良親王 鎌倉/大塔宮

こんにちは。王室研究会です。

 

今回は「皇韻を探る」第2回です。

 

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ここでは

  1. 初代神武天皇の子孫である皇胤の研究
  2. その皇胤たちが残した余韻をめぐる旅

をお送りしていきたいと思います。

 

天皇ももちろん皇胤に当たります。このシリーズで天皇を扱う場合はその詳細をすでにシリーズ化されている「天皇陵制覇の道」に任せます。

 

今回は

第96代後醍醐天皇・皇子・大塔宮護良親王

です。

 

それでは参りましょう!

 

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再び鎌倉です。

実は前回の用堂女王の墓とともに奉拝していました。

鎌倉駅から「大塔宮」行きのバスに揺られること10分ほど。

「ダイトウノミヤ」のアナウンスに従って下車しました。

今回は親王の墓を目指します。

大塔宮を横目にしばらく歩を進めていきます。

 

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夏です。

住宅街を抜けた先に開けた場所がありました。

八日目の蝉の中に、幼な子の声が微かに聞こえてきます。

そんな場所に護良親王の墓は鎮座していました。

この森だけが時代の中にとり残されているかのようです。

聖域に足を踏み込めば、親王の悲痛な想いが脳内に流れ込んできます。

 

鎌倉が終わろうとしていました。

もののふたちの断末魔が飛び交う中、親王は暗闇の中でひたすら経を唱えます。

憎きは尊氏。しかし、最も憎いのは父でした。

 

護良親王の一生は‘‘悲劇’’以外の何ものでもありませんでした。

 

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護良親王は延慶2年(1308)に後醍醐天皇の第三皇子として誕生します。

成長すると比叡山延暦寺天台座主となります。

第116世・尊雲法親王です。

 

「仏門に入りながらも武道を好む」

 

京ではこのようにして恐れられていました。

親王が武道の鍛錬を欠かさなかったのは理由があります。

およそ100年前の記憶。

 

承久の敗戦でした。

 

親王の幼き頃を囲った公家、僧たちは親王に屈辱的な100年前の歴史を語ります。

親王はこれらの者たちの影響を受けて討幕の思いを日々募らせます。

延暦寺では討幕の祈祷が行われていました。

 

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石段もだいぶ上ってきたようです。

墓を守る鎮守の森は鬱蒼と茂っていました。

苔が生しています。

足にはツタが絡んできます。

参拝者は少ないのでしょうか。

通るにままならない道もありました。

 

笠置山には煙が立ち込めています。

現在の京都府相楽郡笠置町に存在するこの山は、後醍醐天皇が行宮を設けた場所です。

天皇はここに構えて鎌倉軍と対峙しました。

そんな笠置の山も陥落します。

帝は平等院に捕らえられ隠岐の島へと配流されました。

 

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気がつけばずいぶん上ってきたようです。

滑らかな苔に足元をとられながらも、なんとか上ってきました。

墓形は五輪塔だと考えられます。

強固な石柵で守られています。

小高い山の山頂に鎮座していました。

 

天皇隠岐の島に流されている間、親王は令旨を連発していきます。

「各々帝徳に帰し奉り…」

父帝とともに討幕を成し遂げる。

純粋な想いが伝わってきます。

般若寺での危機一髪を乗り越えた尊雲法親王は還俗して‘‘大塔二品親王護良’’を名乗ります。

還俗した護良親王は着々と討幕に向けて動き出します。

元弘3年(1333)には楠木正成とともに千早城で挙兵します。

親王の令旨は諸国を駆け巡り馳せ参じる者たちが増えてきていました。

 

親王の令旨。

親王にとっては悪気は一切なかったでしょう。

しかし、このことは父帝・後醍醐天皇を揺さぶる結果となりました。

 

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護良親王を祭神として祭る鎌倉の大塔宮に戻ってきました。

明治天皇の勅命によって創建されたこの神社。

大塔宮護良親王の尊皇の思いを弔っています。

 

父帝の討幕は成功に終わりました。

親王が最も警戒した人物、足利高氏の功によって。

親王足利高氏征夷大将軍に任じられ、幕府を開くことを警戒します。

 

公家一党のマツリゴトをなしていく。

 

それには関東侍は必要ありませんでした。

 

後醍醐天皇親王に対して再びの出家を命じます。

これには親王の権力の増大化を恐れたことがあります。

さらには、天皇の寵愛した阿野廉子

廉子は自身の子である義良親王後村上天皇を即位させる野望を持っていました。

護良親王の権力が強まれば自身の実子である義良親王の即位は危ぶまれます。

 

護良親王信貴山毘沙門堂に依然として構えていました。

 

「高氏に野心あり」

 

建武新政の綻びが露呈していく中、源氏の棟梁である足利高氏への期待が集まります。

しかし、建武中興最大の功労者の1人である護良親王は未だに上洛していなかったのです。

出家の命令を拒否し、高氏の退去を親王は望みました。

 

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やがて征夷大将軍の大命が親王に下ります。

この時、遂に親王は上洛を果たしました。

しかし、帝の寵后・阿野廉子が立ちはだかります。

高氏と廉氏の考えは一致していました。

護良親王を排斥したい思いは共通です。

 

親王は清涼殿において身柄を拘束されました。

 

兵部卿征夷大将軍護良は皇位簒奪を企て兵を集めている」

 

まったくの讒言でした。

親王千早城からの戦友、楠木正成はこのとき北条軍の残党処理を命じられ都から離れていました。

これも作戦だったようです。

 

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親王は父帝に無実を訴えますが認められませんでした。

無念のまま鎌倉に護送され、そこで幽閉されます。

現在もその洞穴は大塔宮本殿の最奥に存在しています。

 

深く、真っ暗な寂しい場所でした。

 

ここで護良親王足利直義の命を受けた淵辺義博によって首をはねられます。

この殺害の理由として、北条時行の乱が原因として挙げられます。

中先代の乱ですね。

北条氏の残党により護良親王は宮将軍として担がれる可能性があったのです。

それを直義は恐れました。

淵辺義博が親王の首をはねた際、親王は刃先を口で食い止めたと伝えられています。

両眼を見開いて死んでいた親王の首を淵辺義博はあまりの恐ろしさに投げ捨ててしまったようです。

これには中国の楚の王の言い伝えを思い出したからと言われています。

 

「王に殺戮された息子は復讐のために剣の刃先を噛み切って口中の刃先を王に向けて飛ばした」

 

まさに護良親王の境遇に似ていますね。

この一部始終を見ていた南御方はあまりの恐ろしさにしばし固まっていたがやがて親王の首を抱き泣き喚いたといいます。

『参考太平記』にはそのリアルな情景が描かれていました。

 

 

おわりに

 

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大塔二品親王護良。

親王の生涯は帝に尽くし、朝廷の復興をひたむきに願う姿勢が一貫しています。

明治時代の南朝正統論の後押しにもなったのではないでしょうか。

一方で、足利直義親王殺害を命じた理由も頷けるものがあります。

 

皇胤たる身に咲いたからにはその御身が人に利用され得る、ということです。

そして恐れ多くも、皇胤たる方には宝祚をお践みいただく覚悟をお持ちいただく責任もあります。

 

北条氏の残党は間違いなく親王を担いで蜂起したでしょう。

そして、親王自身もそれにすがっていたと思います。

直義の殺害は万世一系天皇の皇胤である身への反逆です。

許されるものではないでしょう。

しかし、親王の犠牲は結果的に尊氏の牽引を招いたとしても、意味がないものではありませんでした。

 

大塔宮護良親王は大嫌いだった関東の地で無念のうちに眠っているのでしょうか。

そうは思いません。

いま、鎌倉宮こと‘‘大塔宮’’は様々な国の人々からの参詣を受けています。

鶴岡八幡宮のさらに奥にある同宮。

鎌倉にとっての鬼門の方角に存在しています。

いまは鎌倉の地を‘‘猛々しく’’守護してくれていることでしょう。

 

そう願ってやみません。

 

交通経路

鎌倉駅バス「大塔宮行き」9分

 

参考文献

『別冊歴史読本 天皇家系譜総覧 改訂版』

『歴代御陵めぐり』

護良親王

 

王室研究会6大学統轄部長 藤原

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