王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

第95代花園天皇「十楽院上陵」〜天皇陵制覇の道〜

こんにちは。王室研究会です。

今回は第95代花園天皇の御陵である「十楽院上陵」です。

それでは参りましょう。

 

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京都七口の一つ、粟田口にその御陵はあります。

ずいぶんと山を登ってきたようです。

知恩院の壮大な三門に目をひかれますが、今回はそれを横目に通り過ぎます。

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後ろを振り返れば京都の景色が一望できます。

夕暮れでした。

遠くには京都タワーが燦爛と輝いていました。

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すぐ隣には青蓮院があります。代々皇族の門跡寺院として栄えてきました。

青蓮院門跡として有名なのは幕末の朝彦親王などでしょうか。

久邇宮家の祖となった親王ですね。

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菊の御紋が彫られた重厚な門は開かれていました。

その先には竹林が鬱蒼としています。石畳の道は私を聖域に招こうとしていました。

そろそろ、花園天皇について語りましょう。

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第92代伏見天皇の第三皇子として永仁5年(1297)7月25日に生誕しました。

正安3年(1301)8月15日に親王宣下を受けます。

徳治3年(1308)8月26日に土御門東洞院殿において践祚、延慶元年(1308)11月16日に太政官庁に即位します。

御歳12歳のことでした。

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父である伏見上皇の意向により兄の後伏見上皇の猶子となります。

そして、両統迭立の制度に則って大覚寺統後二条天皇のもとで立太子しました。

治世は10年に及びました。

その在位中は前半は父の伏見上皇が行い、後半は兄の後伏見上皇が執りました。

そのため、天皇は学問や歌学に専念します。

花園天皇宸記』はこの時代の状況を知る上で大変重要な資料です。

幼き頃より毎朝読経、念仏を欠かさず清廉な人柄だったと伝えられています。女人もあまり近づけさせなかったそうです。

歌道にあたっては京極為兼を師と仰ぎ京極派の中核を成していました。

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天皇はやがて大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)に位を譲ります。

このとき、尊治親王は30歳でした。

当今の天皇より皇太子の方が年齢が上だったということになります。

譲位した後も持明院統であり自身の兄である後伏見上皇の第一皇子である量仁親王(光厳天皇)を養育し、禅宗信仰に力を注いでいきました。

建武2年(1335)11月22日に出家します。

そして、正平3年(1348)11月11日に萩原殿において崩御なされました。

御歳52歳のことです。

花園寺から華頂山は西北の麓。十楽院上において火葬に付しました。

拾骨をすることなく、そのまま土をかぶせたと伝えられています。

その上に塔婆を立てたそうですが今はその塔婆は見当たりません。

『十楽院の指図』によれば御塔と記されている場所があります。

それがその昔塔婆が立っていたことを伝えている唯一の手がかりです。

今は円墳の形をなし石柵がそれを囲っています。

この十楽院ですが現在は跡形もありません。

故趾が知恩院総門の北側にわずかに残るばかりです。

 

さて、この花園天皇ですが臨済宗妙心寺派大本山妙心寺の開基であることが有名です。自身の花園離宮を下賜し妙心寺を建てます。また、現在の花園大学妙心寺の般若林が起源とされています。花園天皇の「報恩謝徳」の精神のもと禅の精神に則った教育が現在も続いています。

 

今回はここまで

 

第95代花園天皇 御名:富仁(とみひと) 異称:萩原殿

在位:1308年9月11日〈延慶元年8月26日〉- 1318年3月29日〈文保2年2月26日〉

伏見上皇の第三皇子

 

交通経路

東山駅から徒歩9分

青蓮院門跡のすぐ横

 

参考文献

北島静雄『歴代天皇陵総覧』新風舎

合田安吉『歴代御陵めぐり』大文館

笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』

 

王室研究会6大学統轄部長 藤原