王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

第86代後堀河天皇「観音寺陵」〜天皇陵制覇の道〜 激動の承久に祚を践む

こんにちは。王室研究会です。

少し久しぶりの投稿となってしまいました。

今回は第86代後堀河天皇の御陵である「観音寺陵」です。

それでは参りましょう!

 

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京都、東山に連なる月輪山の麓。皇室の菩提寺泉涌寺です。ここは御寺と称され皇室ゆかりの寺院です。

現在、皇嗣殿下が「泉涌寺を守る会」の名誉総裁をお勤めになっています。

そんな権威あるお寺の参道を進むと、観音寺陵は見えてきます。

ここは孝明天皇英照皇太后陵への参道の途中に存在します。

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遥か嵐山に沈む夕日は東山の山麓に激しくその残光を打ち付けています。

後堀河天皇もそんな時代に生まれました。

天皇は第80代高倉天皇の二ノ宮である守貞親王の第三皇子として誕生しました。建暦2年(1212)2月18日のことです。

承久4年(1222)正月には元服、承久3年7月9日には閑院において践祚します。そして同年12月1日に太政官庁に即位しました。

御年10歳のことです。

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1212年といえば。。。承久の乱が勃発しましたね。後鳥羽上皇が兵力を集め北条義時追悼の宣旨を出されました。

しかし、官軍は瞬く間に敗れ、錦の御旗の初陣は屈辱的な敗戦で幕を閉じました。

そんな日本中を巻き込んだ戦の中に天皇は生まれたのです。

父の守貞親王はかつての源平の合戦の際、安徳天皇と共に西国へ連れ去られました。皇位から遠のいた親王は出家して持明院行助入道親王を名乗ります。

しかし、後鳥羽上皇による倒幕が失敗に終わると、親王は新たに即位させられた茂仁親王、つまりは後堀河天皇院政を行うこととなりました。

後堀河天皇は父の守貞親王院政のもとで治世を過ごします。

父の守貞親王太上天皇号を付与されましたが、皇位につくことなくこの世をさります。

後堀河天皇にとっては自分が天皇で父が天皇ではないことに違和感を覚えたのでしょう。

父の守貞親王後高倉院追号を贈りました。

このような例は近世になっても登場しますね。

光格天皇が父の閑院宮典仁親王太上天皇号を送ろうとしましたが拒否された一件です。

これは明治になって慶光天皇追号が贈られました。

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後堀河天皇は自身の皇子である秀仁親王に譲位します。後の四条天皇です。

院政が開始される予定でしたが、天皇自身が生まれつきの病弱であることや外祖父の九条道家専制が極まりまもなく持明院において崩御なされました。

天福2年(1234)8月6日のことです。御年23歳でした。

葬送の儀は朝まで及んだと伝えられています。明月記には土葬により葬送され法華堂の下に納めたと記されていますが、今日伝わる御陵は円墳です。

元治元年の修陵の際に整備されたものと思います。

その昔観音寺という大伽藍を誇る寺があったそうですが応仁の乱により灰塵に帰したそうです。

 

さて、この後堀河天皇はまさに激動の時代に生まれました。承久の乱は朝廷が幕府に噛み付いた最初の一件でした。この敗戦を機に幕府は西国にまで勢力を及ばせ、秋津洲全土をほぼ統治していきました。

しかし、北条氏は依然として親王将軍の鎌倉下向を願います。皇室の権威無しでは幕府の体制は盤石なものとはなりませんでした。

そしてこの屈辱的は敗戦は“戦う宮様”こと護良親王の誕生を生むことになり、建武中興のきっかけともなっていきます。

 

今回はここまで

第86代後堀河天皇 御名:茂仁(ゆたひと) 幼名:男二ノ宮(?)

在位:1221年7月29日〈承久3年7月9日〉- 1232年11月17日〈貞永元年10月4日〉

守貞親王(後高倉院)の第三皇子

 

交通経路

四条天皇陵編を参考

 

参考文献

北島静雄『歴代天皇陵総覧』新風舎

合田安吉『歴代御陵めぐり』大文館

笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』