王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

第121代孝明天皇「後月輪東山陵」〜天皇陵制覇の道〜 古代山陵の復活

こんにちは。王室研究会です!

今回は第121代孝明天皇の御陵である「後月輪東山陵」です。

それでは参りましょう。

 

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孝明天皇・英照皇太后後堀河天皇陵への参道は泉涌寺域内にあります。

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少し脇道に逸れたところです。「月輪陵」を右手に望み坂道を進んでいきます。途中で後堀河天皇陵がありますが今回は奥へと進んでいきます。

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本編です。

孝明天皇仁孝天皇の第四皇子として天保2年(1831年)6月14日に誕生しました。同6年9月18日に儲君治定、まもなく親王宣下 を受けます。

同11年3月14日に立太子、同15年の3月27日には元服

弘化3年(1846年)2月13日には先帝の仁孝天皇崩御を受けて践祚しました。同4年9月23日には紫宸殿において即位の大礼を挙行します。時に天皇は御歳17歳のことでした。

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天皇の御世はあまりにも情勢が複雑怪奇でした。それを当記事で説明していくことはまた別の機会に設けたいと思います。

幕末の時期に先帝の崩御を受けて即位した天皇は、ロシアやアメリカからの開国要求に対し毅然とした態度で臨みます。

外国人という存在は天皇にとっても、朝廷にとっても、庶民にとっても異質なものであり、同じ“ヒト”として捉えていたかどうかも怪しいでしょう。

孝明天皇は攘夷の意向を幕府に示しながらも幕府に対しては公武融和を望みます。そのため討幕派の三条ら七卿は京都を追われる事態にもなりました。

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ここでは孝明天皇の御陵の遠隔について記したいと思います。

天皇は慶応2年(1866年)12月25日(陰暦)に崩御なされました。

在世中には天皇陵の復興に力を注ぎました。特に文久慶應の修陵において朝廷の「諸陵寮」を復活させます。これは律令制度のもとで各天皇陵を管理し把握していく朝廷の官職でした。

江戸時代の中期には蒲生群平が『山陵志』を編纂し機内の陵墓の把握を進めていく事業などがありました。朝廷の天皇陵は荒廃が進んでおり、尊皇思想が強まるにつれて天皇陵の治定が進んでいきます。

孝明天皇崩御の際には上古の形を復活させることが図られました。それは土葬でありかつ上円下方墳といった巨大な山陵を築くことです。

天皇陵の形は時代によって様々なものがありましたが仏教の影響からその大多数が火葬に付され法華堂や石塔といった小規模なものになっていました。

幕末の尊皇家たちは天皇権威を山陵で示していくために巨大な墳墓を築いたのです。

それが孝明天皇の御陵である「後月輪東山陵」です。

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この御陵は月輪山に築かれていきます。

私たちのような一般人が近づけるのは木戸が構えられた所までです。

その先には鳥居などがなく、山道に石造の階段が伸びておりその先におそらく陵墓があります。孝明天皇陵と英照皇太后陵の一般拝所は同じ場所ですがその先にはそれぞれの陵墓の直近まで階段が続いているようです。

山陵奉行戸田忠至が命じられて山陵の制を作成します。朝廷幹部がこれを採用してここに古礼の復活が示されました。

後日山陵の治定を行います。泉涌寺の後山の月輪山に決定されました。その後山陵地鎮祭が行われ陵号を「後月輪東山陵」とします。

葬送当日です。夜9時に御所の建礼門の西仮門を出御。征夷大将軍徳川慶喜京都守護職松平容保京都所司代松平定敬、老中板倉勝静らほか多数が従います。

午前0時に泉涌寺に先帝を乗せた御車が着御。泉涌寺南庭に長老並びにその僧らが仏法によって供養します。

やがて山を登り御須屋の設けられた石室に棺を修めたと伝えられています。鳥居などで装飾された場所は後に三段にわたって土盛りが築かれ、その上に円墳が築かれます。

頂上には自然石が置かれているそうです。

これらの一連の儀式には泉涌寺の関係がなかったようですが、葬儀自体は仏式で行われ百日供養においては泉涌寺の般舟院で行われました。

 

さて、この孝明天皇陵編に関しては天皇の業績を記していくいつもの記事とは異なり、孝明天皇陵の沿革について記させていただきました。

とはいっても、まだまだ自分も知らないことばかりで全てを記し切れたわけではありません。

そのため、完成度が低い内容となったことをお詫び申し上げます。

孝明天皇に関しては謎多き帝でありこれからも一層の研究のご対象となっていくものであると確信します。

 

今回はここまで

 

第121代孝明天皇 御名:統仁(おさひと)幼名:煕宮(ひろのみや)

在位:1846年3月10日弘化3年2月13日〉‐ 1867年1月30日〈慶応2年12月25日〉

仁孝天皇の第四皇子

 

交通経路

四条天皇編を参考