王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

第120代仁孝天皇「後月輪陵」〜天皇陵制覇の道〜 追号と諡号の違い

こんにちは。王室研究会です。

今回は第120代仁孝天皇の御陵である「後月輪陵」です。

本題に入る前にひとつお知らせです。

今回、新たに我々「王室研究会」として

中京大学王室研究会」

都立大学王室研究会」

国際基督教大学王室研究会」

の3支部が発足しました!それぞれ各大学の現役学生が指揮を取ってくれています。

支部ごとのメンバーを絶賛募集中です!!

もちろん、明治大学王室研究会の明大生の入会をいつでもお待ちしております。

また改めて詳細のご報告をさせていただく予定です。

 

それでは本編です。参りましょう。

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仁孝天皇は先帝であり父でもある光格天皇の第六皇子として、寛政12年(1800年)2月21日に誕生しました。

儲君治定を経て文化4年(1807年)には親王宣下を受けます。同6年3月16日に元服、同14年3月22日には父帝の禅を受けて践祚します。

まもなく同年9月21日には京都は紫宸殿において即位の大礼が挙行されます。

時に天皇の御年18歳のことでした。

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天皇の特筆すべき功績といえば“諡号”の復活が挙げられます。平安時代宇多天皇より、歴代天皇は“院号”を与えられていました。

諡号院号の違いを少し説明しましょう。

まず、諡号とは『令義解』によると“生時の行せきを累ねて死後の称号となす”とあります。崩御後に在世中の徳行を賛美して、新帝が先帝に贈呈します。

諡号は2種類に分けられます。

和風諡号持統天皇崩御の際に贈られた「大倭根子天之広野日女尊(オオヤマトネコアメノヒロノヒメミコ)」が初例です。大和言葉が使われ日本的情緒が溢れるものですね。以後平安初期の淳和天皇まで8代にわたり贈られたそうですが、以後は付けられることがなく衰退していきました。

漢風諡号文武天皇の“文武”が初例ですが、それ以前の初代神武天皇から41代持統天皇までは宮廷官吏の淡海三船という人物が一斉に撰進したと伝えられています。

先述しましたが、59代宇多天皇以降は漢風諡号が付けられることもありませんでした。宇多天皇からは“院号”が付けられます。

ではこの“院号”について見ていきましょう。

院号とは“追号”の一種です。追号とは諡号のように先帝賛美の特徴を持つものではありません。院号は先帝が御所としていた場所やゆかりの寺院の名前から選定されます。

今、歴代天皇の号を見てみると京都の地名が多いことに気がつきませんか?例えば嵯峨天皇白河天皇は京都の地名ですね。これは宮家の宮号にも同じことが言えます。竹田宮有栖川宮北白川宮はそれぞれ京都の地名です。

また、寺院名が天皇の号とされた場合もあります。円融、花山、光厳、光明の各天皇はそれにあたります。

このような号の前に“後”の字が付けられる場合があります。後醍醐天皇後桜町天皇などそれは26例に登ります。これは“加後号”と称され、先帝からの正当な血筋を後世に証明するためやその帝への崇拝の念から付けられたそうです。後醍醐天皇が延喜・天暦の治の醍醐天皇を理想としていたので、後醍醐天皇の“後”は後者の例であると思います。

明治時代に一斉に天皇号が贈られました。院号とは臣下の身であってもつけることが可能であったため幕末の尊皇家はこれを批判しました。宇多院宇多天皇になった瞬間です。

しかし、天皇の号は以仁王の令旨にも見られているため天皇号自体の存在が忘れられていったわけでは無いと思います。

そして、幕末。第120代仁孝天皇が父帝に“光格”の諡号を送りました。これは寺院名でも無ければ京都の地名でもありません。

仁孝天皇諡号の復活を成し遂げたのです。

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明治時代からは一世一元の制が採用されました。一つの元号につき一代の天皇崩御するまで自らの治世とする制度です。

明治時代は明治天皇、大正時代は大正天皇ということですね。

これによって元号が先帝の“追号”として贈られることが慣例となりました。 

これは諡号では無いのです。あくまで“追号”とされています。そうなりますと、事実上諡号が贈られたのは孝明天皇が最後となっています。

先帝に治世中の元号追号として贈られるというものはあくまで慣例上のものです。

つまりは必ずしも元号追号となることはなく、儒教教典や日本古典から諡号として漢字2文字が贈られることも無いわけではありません。

実際、皇后に関しては貞明皇后香淳皇后諡号が贈られています。元号である“令和”は初の国書として『万葉集』から採用されましたが後者の香淳皇后の“香淳”は国書である『懐風藻』から採用されています。香淳皇后のお印である桃にちなみ付けられたそうです。

そうなりますと、現在では皇后に関してのみ諡号が送られていることになりますね。

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寄り道が長くなってしまいました。

仁孝天皇の治世には大塩平八郎の乱など各地で一揆が乱発します。

また天皇は殊の外学問に力を入れます。臣下や公家の子弟にも学問を奨励しかつての開明門院御殿には学習院の創設を進めます。

しかし、仁孝天皇学習院の大成をみることはありませんでした。

弘化3年(1846年)正月26日に譲位をすることなく在位のまま崩御なされました。

御年47歳のことでした。

夜半の泉涌寺に埋葬されました。

 

さて、この仁孝天皇諡号の復活を成し遂げた功績が目立ちますね。その他学習院の創設を進めたことは現在の学習院大学の発展の基礎となりました。

 

次回、いよいよ幕末も幕末。王政復古への門戸が開きます。孝明天皇です。

 

今回はここまで

 

第120代仁孝天皇 御名:恵仁(あやひと)幼名:寛宮(ゆたのみや)

在位: 1817年10月31日文化14年9月21日〉- 1846年2月21日〈弘化3年1月26日〉

光格天皇の第六皇子

 

交通経路

四条天皇陵編を参考

 

参考文献

北島静雄『歴代天皇陵総覧』新風舎

合田安吉『歴代御陵めぐり』大文館

笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』

 

明治大学王室研究会代表 藤原