王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

第119代光格天皇「後月輪陵」〜天皇陵制覇の道〜 危機を救った聖天子

こんにちは。王室研究会です。

今回は第119代光格天皇の御陵である「後月輪陵」です。

長かった「月輪陵」編が終わりました。

しかし、この「後月輪陵」も同域にあります。泉涌寺は月輪山の麓です。

それでは参りましょう

 

f:id:Fujisakiand:20200213133212j:plain

光格天皇は明和元年(1771年)8月15日に誕生します。

先帝の後桃園天皇には皇嗣となる男子が存在しなかったため、崩御された後に光格天皇(兼仁王)は後桃園天皇の養子とされました。

安永8年(1779年)11月8日には儲君治定を受けます。

同年11月25日に践祚し、まもなく安永9年12月4日に京都は紫宸殿において即位の大礼を挙行しました。時に天皇は御歳10歳のことです。

f:id:Fujisakiand:20200213134534j:plain

光格天皇閑院宮典仁親王の第六皇子であり、世襲親王家閑院宮家に生まれました。そのため、生後まもなくの兼仁王は聖護院宮忠誉入道親王に預けられる予定でした。

将来は聖護院門跡を継ぐことが期待されていたのです。

明治時代に門跡寺院に皇族が降ることがなくなる前は、皇族は門跡寺院に入り出家することが慣例とされていました。

それによって皇胤の不足が発生していましたが、そのような事態を回避するために幕府侍講の新井白石は新たに宮家として「閑院宮」を設立させたのです。

その閑院宮の「第六皇子」でしたので、兼仁王に皇位が継承される可能性は高いとは言えませんでした。

先述の通り、先帝の後桃園天皇には皇子が存在せず、欣子内親王がただ一人の実子でした。

10歳の閑院宮家の皇子は先帝の崩御の“後”に養子として立てられ、直ちに皇位を継承します。

f:id:Fujisakiand:20200213135732j:plain

少し昔を振り返ってみましょう。

第101代称光天皇に皇子が存在せず、その当時は伏見宮貞成親王の第一皇子の彦仁王(後花園天皇)が即位しました。

それ以降、皇室は伏見宮の流れを組んでいましたが、光格天皇の即位により伏見宮から閑院宮の系統に移ることとなりました。

以来、現皇室まで閑院宮の流れを組んでおりますが、今上天皇に皇子が存在しないため、皇太弟の皇嗣秋篠宮が即位します。閑院宮から皇統が秋篠宮に移ることを意味しています。

光格天皇には皇后として先帝の娘である欣子内親王が立てられています。よって現皇室は男系として閑院宮、女系として伏見宮の血が流れていることになります。

f:id:Fujisakiand:20200213141302j:plain

天皇の治世には石清水八幡宮や上下賀茂神社の臨時祭の復活に努めました。

この二社は古代より皇室と大変ゆかりがある神社ですね。

また、有名なものに「尊号事件」がありました。光格天皇が父の閑院宮典仁親王に対し、「太上天皇」の号を送ろうとしましたが、当時の幕府老中首座である松平定信がこれを拒否した一件です。

一時朝幕関係に緊張が走りましたが、松平定信は皇室に対して水面下で接触を図り、天皇をなだめたと伝えられています。名文を乱すことはできないと固辞していた定信でしたが、関白鷹司輔平に対して書簡を送っていたそうです。

一時は朝廷も尊号賦与を諦めますが、再び尊号を送ることを模索し始めます。幕府は武家伝奏を厳しく罰するなどしますが、ここでも幕府は閑院宮典仁親王に対し千石の加増をもって幕引きを図りました。

朝廷の強硬な姿勢が活発的に表に出てくるようになっていました。

f:id:Fujisakiand:20200213151122j:plain

天皇は文化14年(1817年)に自身の皇子である恵仁親王に譲位します。上皇時代は桜町殿で過ごし、天保11年(1840年)11月18日に桜町の仙洞御所で崩御なされます。

御歳70歳のことでした。

泉涌寺で大喪が行われます。夜半に月輪山の麓の「後月輪陵」に埋葬されます。陵形は高さ18尺の九重の石塔です。域内東北隅霊元天皇の西北側に存在します。

 

さて、今回この光格天皇陵編を執筆させていただくにあたってサブタイトルに「危機を救った聖天子」と記させていただきました。個人的には歴代の皇祖皇宗を比較するようなことはすべきではないと思っています。しかし、この光格天皇は前述しましたが、現皇室の直系の祖先であり、幕末期の皇室の舵取りを担った重要な帝であることは間違いないと思います。

いわゆる傍系からの即位であった天皇ですが、新井白石閑院宮の設立が皇室の危機を救ったのです。世襲親王家は江戸時代には四家存在していました。

皇室の長老的立場であり最も古い家格を持つ伏見宮家」

幕末の動乱には征東大将軍に命じられた有栖川宮家」

正親町天皇の皇子を始祖とし京都の桂離宮はあまりにも有名桂宮家」

直仁親王を始祖とし危機を救った名家閑院宮家」

ちなみに、天皇の皇子である盛仁親王は文化7年9月18日に京極宮を相続し桂宮の称号を下賜されています。

 

「宮家」というものがいかに皇室にとって重要なものであるのかを日々考えさせられます。

現代の皇室はあまりにも皇胤の方の数が極端に少ないです。確かに、明治期以降の皇族数は多すぎていたかもしれません。しかし、本来はそのような形の皇室が正しいものです。

 

旧宮家の方々は明確に「皇胤」であります。皇位継承者です。

 

切に九重に登られることを希望いたします。

 

今回はここまで

 

第119代光格天皇 御名:兼仁、のちに師仁(もろひと) 幼名:祐宮

在位: 1780年1月1日〈安永8年11月25日〉 - 1817年5月7日〈文化14年3月22日

閑院宮二代目典仁親王の第六皇子

 

交通経路

四条天皇陵編を参考

 

参考文献

北島静雄『歴代天皇陵総覧』新風舎

合田安吉『歴代御陵めぐり』大文館

笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』

 

明治大学王室研究会代表 藤原