王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

第117代後桜町天皇「月輪陵」〜天皇陵制覇の道〜 最後の女帝

こんにちは。王室研究会です。

今回は第117代後桃園天皇の御陵である「月輪陵」です。

皇室の歴史において最後の女帝となった天皇です。

それでは参りましょう。

 

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後桜町天皇は元文5年(1740年)8月3日に桜町天皇の第二皇女として生誕します。寛延3年(1750年)において内親王宣下を受け、宝暦12年(1762年)7月27日に践祚を経て同13年に京都は紫宸殿に即位の大礼を挙行しました。

天皇の兄弟には先帝である第116代桃園天皇がありました。桃園天皇に2人の親王がいましたが未だ即位するのには幼少であったため、桃園天皇にとっては姉宮にあたる智子内親王桃園天皇の皇子の成長までの“中継ぎ”として即位する運びとなりました。この方が第117代後桜町天皇であり、最後の女帝です。

少し整理しましょう。

後桜町天皇が成長を待っていた皇子は英仁親王です。のちの第118代後桃園天皇にあたります。英仁親王は生誕間も無くして“儲君治定”を父である桃園天皇から受けていました。そのため、幼くして皇位につくことは約束されていたのです。しかし、父帝の桃園天皇は22歳という若さで崩御されました。この時、幕府側からの要請や朝廷内でも広く会議を起こし、最終的に桃園天皇の姉宮である智子内親王に一時的な皇位継承が図られました。この時すでに先帝となった桃園天皇崩御がしばらく隠されていたようですので、朝幕双方にとっても大混乱であったことが察せられます。

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後桜町天皇は在位8年にして自らの甥っ子にあたる英仁親王に譲位します。ここにおいて後桜町天皇の役目は果たされたかのように見えますね。しかし“成長を待った”とはいっても即位した英仁親王(後桃園天皇)は未だ14歳でした。その後に即位する第119代光格天皇も10歳という幼さでした。そのため、後桜町天皇は自身が上皇となった後も仙洞御所において幼帝の後見人としての役目に努めました。

また、天皇には『禁中年中行事』といった有職故実書や歌学歌論書としての『古今伝授の御記』などの著作があります。f:id:Fujisakiand:20200207173955j:image

長きにわたり院において政務を取り仕切った天皇は、文化10年(1813年)閏11月2日に京都は桜町の御殿において崩御なされました。御年74歳のことでした。

天皇泉涌寺で大葬に付されたのち夜半に月輪陵に埋葬されました。陵形は17尺ほどの石塔で域内南隅後桃園天皇の南側に存在しています。

 

さて、この後桜町天皇は長きにわたる皇室の歴史の中で8人10代の女帝のうちの1人です。そして現皇室典範が定めるところの最後の女帝となりました。

私たちは恐れ多くも、後桜町天皇を最後の女帝にしなければならないと思います。

我が国の女帝は、皇室の萬世の皇統維持のために敷かれた“一系の継承ルール”のもとで即位しています。そのすべての女帝が父親を天皇、または皇族としています。例えば元正天皇は夫を草壁皇子としています。持統天皇は父が天智天皇です。そして、今回の後桜町天皇も父を桜町天皇としていますね。

そう考えてみますと、一系の継承が守られている女帝が批判の対象となることは皆無のように見えます。しかし、次に生まれてくる子どもはどうなってしまうでしょうか。次の子が皇族ではない人物を父としている場合、それは皇室が貫いてきた一系継承ではなくなってしまいます。

昔の皇室であれば、皇族内で男性皇族を連れてきて結婚させる、といった手法もあるでしょう。しかし、現在においてはそのようなことが行われることは無いと思います。

女性天皇を認めた場合、それは必然的に女系天皇を認めていくことになっていきます。女帝に結婚をさせないようにすることの方が差別的です。内親王さま、女王さまにはいずれは臣籍にお下りいただき、幸せな家庭を築いてほしいと心から思います。

 

今回はここまで

 

第117代後桜町天皇 御名:智子(さとこ) 幼名:以茶宮(いさのみや) 緋宮(あけのみや)

在位: 1762年9月15日〈宝暦12年7月27日〉- 1771年1月9日〈明和7年11月24日〉

桜町天皇の第二皇女 姉宮に盛子内親王、弟宮に桃園天皇

 

交通経路

四条天皇陵編を参考

 

参考文献

北島静雄『歴代天皇陵総覧』新風舎

合田安吉『歴代御陵めぐり』大文館

笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』

 

明治大学王室研究会代表 藤原