王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

第116代桃園天皇「月輪陵」〜天皇陵制覇の道〜 

こんにちは。王室研究会です。

  

今回は第116代桃園天皇の御陵である「月輪陵」です。

それでは参りましょう。

 

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桃園天皇は先帝で父でもある桜町天皇の第一皇子として、寛保元年(1741年)2月29日に誕生します。延享3年(1746年)3月16日において儲君治定、親王宣下を受けます。同4年3月15日元服、同月16日に立太子します。その後父帝の譲位により5月2日に践祚し、同年9月21日に即位の大礼を挙行します。時に天皇宝算7のことでした。

天皇の時代にはかの「宝暦事件」が起こりました。神道家の竹内式部が朝廷の若い公卿たちを召し集めて尊王論を盛んに説いたことが問題視されたのです。朝廷の関白は幕府に忖度しこれを厳重に処罰しました。

式部は垂加流の『日本書紀』の講義を行いました。それに感化される公卿たちが後を絶えず、式部に師事する公卿で溢れたと伝えられています。

天皇もこれに感化されました。当時17歳だった天皇にとって学問に興味を抱くのは当然のことでしょう。幕府によって講義が止められた際には天皇自身も不満をあらわにしています。

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天皇は譲位することなく、その一生を終えることになりました。宝暦12年(1762年)7月12日に寝殿において宝算22という若さで崩御なされました。

天皇には後継となる皇子がいましたが、未だ若年でした。そのため、天皇の姉宮である智子内親王(後桜町天皇)が亡き天皇の皇子である英仁親王の成長までの“中天皇”として即位します。最後の女帝です。

天皇の後継ぎ問題が解決しないまま天皇崩御したこともあり、当時の朝廷は幕府の意向を踏まえながらも十分な論議を重ねて皇嗣の選別が行われました。その際、空位の事実を隠すため天皇崩御は公に隠されることになり、葬送は少し間を開けて泉涌寺で執り行われました。

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さて、この桃園天皇という帝は7歳という幼さで即位し21歳という若さで崩御なされました。

当時の天皇は、譲位することが慣例として受け取られていた面があり、在位のまま崩御することは珍しい例でした。

それ故に朝廷も皇嗣の選別に余裕がなく、結局天皇の皇子である英仁親王へ繋ぐため女帝の擁立がなされます。英仁親王は既に父帝の桃園天皇から“儲君治定”を生後まもなくに受けていたこともあり、傍系からの即位とはなりませんでした。

この後桜町天皇も中継ぎの帝としての性格が否めません。

 

いつの世にても“皇嗣”の立場は盤石なものでなくてはいけませんね。

 

また天皇の第二皇子である貞行親王(さだもち)は伏見宮家第第17代当主となり伏見宮を継承しています。

 

今回はここまで

 

第116代桃園天皇 御名:遐仁(とおひと) 幼名:八穂宮(やほのみや)、茶地宮(さちのみや)

在位: 1747年6月9日〈延享4年5月2日〉- 1762年8月31日〈宝暦12年7月12日〉

 

交通経路

四条天皇陵編を参考

 

参考文献

北島静雄『歴代天皇陵総覧』新風舎

合田安吉『歴代御陵めぐり』大文館

笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』

 

王室研究会連合改め「王室研究会」代表 藤原