王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

第114代中御門天皇「月輪陵」〜天皇陵制覇の道〜

こんにちは。王室研究会連合です。

今回は第114代中御門天皇の御陵である「月輪陵」です。

では、参りましょう。

 

f:id:Fujisakiand:20200202222258j:image

中御門天皇東山天皇の第五皇子として元禄14年(1701年)に誕生します。宝永4年(1707年)に“儲君治定”を受けます。これは東山天皇の際に復興した朝廷行事で天皇が後継者を勅定することです。

さらに、翌年親王宣下を受け、立太子しました。宝永6年に先帝で父の東山天皇が譲位し、践祚します。年が明けると11月11日に紫宸殿において即位の大礼が挙行されました。宝算10のことでした。

先帝の東山天皇上皇であった霊元天皇の意向が強く働き、朝廷の古儀が復興されていました。天皇の代には正徳元年(1711年)に“元服の儀”が復興されます。

江戸幕府の将軍は六代家宣から八代吉宗の時代でした。朝幕関係は極めて良好であり、新井白石による閑院宮家設置はその象徴たるものです。

そんな中、正徳5年には霊験上皇の姫宮である八十宮内親王が関東に下り、家継のもとへ降嫁することが企図されました。入念な準備が練られていましたが、家継が急逝したことによってこの降嫁はなくなりました。和宮の先駆者になりかけたのです。

f:id:Fujisakiand:20200202222255j:image

天皇は先の三代同様に朝廷の古儀の復興に関心を寄せていました。有職故実書である『公事部類』や御製集の『中御門院御詠集』はその一例です。

およそ26年の在位の後、自身の皇子である昭仁親王(桜町天皇)に譲位します。時に享保20年(1735年)3月21日のことです。

仙洞下御所での余生を送り、元文2年(1737年)4月11日に崩御なされました。宝算37のことでした。

天皇泉涌寺での大葬を経て同寺域の月輪陵に葬られます。域内東隅霊元天皇陵の南東側にあり、陵形は18尺ほどの九重の石塔です。f:id:Fujisakiand:20200202222302j:image

 

さて、この中御門天皇は先帝の東山天皇同様に“朝廷古儀の復興”を試みます。後水尾天皇から始まる近世の天皇は一様にして朝廷文化を重んじ実践してきました。権力が関東に移り、衰えが始まるようにも思いますがまったく逆の方向に動き出します。

しかし、これは一方で朝廷が自力で出来たことでもありません。先述の新井白石閑院宮家設立に関しての金銭は幕府から積まれたものです。京都の文化遺産も幕府の修繕の働きがありました。

閑院宮に関しては、天皇は弟の直仁親王に対して宝永7年8月11日に新宮家創立の勅を命じます。また、天皇の皇女である成子内親王(ふさこ)は寛延2年2月9日に閑院宮第二代当主の典仁親王に嫁いでいます。この閑院宮典仁親王光格天皇の父宮です。しかし、母宮に関しては成子内親王ではなく、大江磐代という人物です。

 

第114代中御門天皇は江戸時代の真ん中を生きたまさに“中”帝でした。

 

今回はここまで。

 

第114代中御門天皇 御名:慶仁(やすひと) 幼名:長宮(ますのみや)

在位: 1709年7月27日〈宝永6年6月21日〉- 1735年4月13日〈享保20年3月21日〉

東山天皇の第五皇子

 

交通経路

四条天皇陵編を参考

 

参考文献

北島静雄『歴代天皇陵総覧』新風舎

合田安吉『歴代御陵めぐり』大文館

笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』

 

王室研究会 藤原