王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

第113代東山天皇「月輪陵」〜天皇陵制覇の道〜

こんにちは。王室研究会です。

今回は第113代東山天皇の御陵である「月輪陵」です。

それでは参りましょう。

 

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東山天皇は延宝3年(1675年)に霊元天皇の第四皇子として誕生しました。天和2年(1682年)に儲君治定、親王宣下を受けます。

この儲君治定は長らく行われていませんでした。時の天皇が行為を継承する皇子を勅定し、明確な後継者を指名します。その後に親王宣下を受け、正式に立太子しました。

やがて、先帝の譲位に伴い即位の大礼が京都の紫宸殿において挙行されます。貞享4年(1687年)のことでした。

朝廷の古儀の復興は先の例だけではありません。天皇の即位の際、最も重要とも言われた“大嘗祭”の復興もこの時行われます。また、山陵の修繕や御料の増加が幕府から計られました。

天皇上皇(霊元天皇)が幕府に強硬な姿勢を示し軋轢が生じていることに対して苦労していたようですが、温厚な性格の天皇はそのような問題に悩まされながらも、円滑に物事を勧めていったと伝えられています。

また、松尾芭蕉井原西鶴などの文人が活躍し、関東では赤穂浪士の討ち入りが起きました。治世中は霊元天皇院政下におかれています。

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宝永6年(1709年)にあたり自身の皇子である慶仁(ヤスヒト)親王に譲ります。しかし間も無く疱瘡のため同年12月17日に御歳35歳で崩御なされます。父であり先帝の霊元天皇は自身の息子に先立たれたということになります。霊元天皇享保17年(1732年)8月6日の崩御でした。

天皇泉涌寺において埋葬されます。御陵の形状は高さ18尺の九重の石塔です。域内中央やや東に寄った場所にあります。

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さて、天皇の時代には元禄文化が花開き松尾芭蕉井原西鶴などが上方で活躍していました。一方、朝廷文化も室町期の応仁の乱より中断していた様々な儀式が復興していきます。とりわけ、大嘗祭はその一番の功績にあたるでしょう。天皇にとって即位の際重要なことはまず践祚を行うことです。そして即位を内外に宣明する即位礼の儀。最後に行われる究極的な儀式が大嘗祭でした。大嘗祭はこの三つの中でも至って神道的な行事であり、天皇大嘗祭の挙行をもってして完全なる天皇になることができました。

その大嘗祭の復興に奮闘したのは父である霊元天皇でしたが、近世に入った時点で天皇の古儀はじわじわと権威を帯びさせ復活していきました。

親子で掴んだ大嘗祭は今日の皇室にも受け継がれ、国家平安の要となっています。

 

また、天皇の第六皇子は上皇(霊元天皇)から閑院宮宮号を下賜され閑院宮家を創設します。その皇子典仁親王は第119代光格天皇の父です。以後閑院宮の直系が皇位を継承し、現在まで来ています。皇位秋篠宮文仁親王の儲君に伴い200年ぶりに皇統が“秋篠宮”に移ります。

 

今回はここまで

 

第113代東山天皇 御名:朝仁(アサヒト) 幼名:五宮

在位: 1687年5月6日〈貞享4年3月25日〉- 1709年7月27日〈宝永6年6月21日〉

霊元天皇の第四皇子

 

交通経路

四条天皇陵編を参考

 

参考文献

北島静雄『歴代天皇陵総覧』新風舎

合田安吉『歴代御陵めぐり』大文館

笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』

 

王室研究会 藤原