王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

第110代後光明天皇「月輪陵」〜天皇陵制覇の道〜

こんにちは。王室研究会です。

今回は第110代後光明天皇の御陵である「月輪陵」です。

それでは参りましょう。

 

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天皇後水尾天皇の第四皇子として寛永10年(1633年)に誕生します。同19年に親王宣下を受け翌20年に明正天皇の禅を受けて即位の大礼を紫宸殿において挙行します。御年11歳のことでした。

明正天皇は女帝でした。そのため、後水尾天皇は皇子の誕生があればその成長を待って直ちに位を譲る旨を明正天皇に伝えていました。そのようにして後光明天皇は即位します。征夷大将軍は家光から家綱の時代です。

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天皇は生涯を通じて学問を好みました。特に朱子学に対しては、日本朱子学の祖ともいうべき藤原惺窩の文集に御製の序を下しました。それほど天皇にとって朱子学は重要なものであり、学ぶべき学問と認識されていました。一方で、日本古典文学の最高傑作とも名高い源氏物語は「婬はいの書」として嫌い、人道に害があるとしてこれを避けました。和歌もあまり好むことがなかったようです。

しかし、ある一件からは天皇が決して宸想に富んでいなかったわけではないということが窺い知ることができます。あるとき後水尾上皇が宮中に御幸した時に上皇は歌を天皇に送りました。その時、天皇はすぐさま返歌を返したということです。返歌を早く返すことは和歌の教養に長けていることになります。博識であった天皇だからこその“業”ということでしょう。

天皇は酒を大変好み、劇飲に興じることもあったようです。ある日それを諫めた徳大寺公信は翌日天皇から召され、謝罪を受けたといいます。

天皇の代には神宮への奉幣が再興される動きがあったほか大学寮の復興が企図されました。

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御在位11年にあたる承応3年(1654年)10月30日において、痘瘡のために御年22歳で崩御なされました。

夜半に泉涌寺おいて大葬が挙行されました。この時、葬送は代々持統天皇よりおよそ火葬で行われていましたが、宮中の御用を務めていた魚屋の八兵衛なる人物が玉体の火葬に対して恐れ多いと主張しました。身分の差を見て憤る人々もいましたが、最終的に泉涌寺が土葬に付すことを決定します。太古の風習が復活した瞬間でした。また、陵形は九重の石塔を成しています。周囲を石柵が囲み正面に石扉が設けられています。域内西北隅に配置されています。

その後も孝明天皇までは大葬に際し仏教式で儀式を行うこととなりました。孝明天皇の陵墓に関しては復古調の円墳が築かれます。

 

さて、この後光明天皇後水尾天皇の多数の皇子女のうちの一人です。後水尾天皇院政を敷きながら自身の皇子たちを次々即位させていきました。先帝の明正天皇は異母の姉です。11歳で即位し22歳で崩御した天皇は短い生涯の間の中で数多の学問に打ち込み、皇室伝統行事にも目を向けた若き帝でした。

 

今回はここまで

 

第110代後光明天皇 御名:紹仁(ツグヒト)  幼名:素鵞宮(スガノミヤ)

在位: 1643年11月14日〈寛永20年10月3日〉 - 1654年10月30日〈承応3年9月20日

後水尾天皇の第四皇子

 

交通経路

四条天皇編を参考

 

参考文献

北島静雄『歴代天皇陵総覧』新風舎

合田安吉『歴代御陵めぐり』大文館

笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』

 

王室研究会 藤原