王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

第109代明正天皇「月輪陵」〜天皇陵制覇の道〜

こんにちは。王室研究会です。

今回は第109代明正天皇の御陵である「月輪陵」です。

それでは参りましょう。

 

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天皇は先帝の後水尾天皇天皇の突然の譲位によって即位します。第二皇女として元和9年(1623年)に誕生し寛永6年(1629年)に内親王宣下を受けます。即位は翌7年のことでした。

後水尾天皇紫衣事件春日局参内に憤慨し、幕府に対抗するようにして女帝を即位させました。これは幕府にとっては意図すべき事柄ではありませんでした。しかし、徳川家の和子(東福門院)の実子であったため、即位はやむなく幕府側も認める結果となりました。

女帝の誕生は以来860年ぶりのことであり、第48代称徳天皇を最後にして女帝は誕生してきませんでした。先例があるとは言っても、860年ぶりの女帝誕生は幕府に衝撃を与えました。後水尾天皇にとってはこれが出来る限りの抵抗であったのです。

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御年8歳で紫辰殿において即位の大礼が行われます。後水尾天皇が長きにわたり院政を執りました。また、寛永11年には徳川家光が諸大名を率いて上洛します、これは一種の示威運動でした。幕府に歯向かう朝廷を多数の武力を示して脅したとも言えます。一時朝幕関係に緊張が走りました。

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天皇は在位14年にして寛永20年10月、皇弟の紹人(ツグヒト)親王に譲位します。そして元禄9年(1696年)11月に中和院の仙洞において御年74歳で崩御なされました。

同月12日に御入棺、院の女房らが伺候し25日に泉涌寺に葬ります。陵は九重の石塔で作られ、位置は域内中央四条天皇陵の北にあたります。

 

さて、称徳天皇以来の女帝の誕生は当時あらゆる方面に対して衝撃を与えたことと思います。幕府が先例がない、といって不快感を示したのは私も納得のいくところであります。860年前の女帝の存在は無論幕府側も朝廷側も認識はありました。しかし、女帝の誕生となり、そこに王配として男子が皇族に入るようなことがあればそれは先例がないことでした。そのため、明正天皇は生涯独身を貫かれています。憶測になってはしまいますが、後水尾天皇がまだ幼い8歳の興子内親王を女帝として立たせることはさぞ辛いものがあったでしょう。幕府側への逆鱗を示すために女帝が立ったことは、悲しい歴史の事実なのかもしれません。

また、明正天皇も事実上の中継ぎとしての役目が濃い天皇でした。もし後水尾天皇に皇子が誕生した場合、ただちに即位させるべき旨を述べています。後に後水尾天皇の皇子が続々と即位していきますが、自身の皇統を続かせるために、一時明正天皇を即位させたことは、女帝の歴史においてはよくあることでした。

 

女帝はその身位をいずれも皇女か皇后に限定されています。決して皇親以外からの即位はありませんでした。それは、女帝というものは男帝や童帝よりもあるかに差別され苦痛が多かったことが原因だと思います。近代国家への道程で男女平等を目指す政府の意思が皇室典範にも反映されたのかもしれません。以後女帝は禁じられました。

皇統の一系の維持のために内親王、女王さまはいずれは臣籍に降下していただくことが皇室にとってもご本人にとっても良いことであると思います。

 

今回はここまで

 

第109代明正天皇 御名:興子 幼名:女一宮

在位期間 1629年12月22日 - 1643年11月14日
寛永6年11月8日 - 寛永20年10月3日

後水尾天皇徳川和子の第一子

 

交通経路 

四条天皇陵編を参考

 

参考文献

北島静雄『歴代天皇陵総覧』新風舎

合田安吉『歴代御陵めぐり』大文館

笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』

 

王室研究会 藤原