王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

第108代後水尾天皇「月輪陵」〜天皇陵制覇の道〜

こんにちは。王室研究会です。

長らく更新が途絶えていました。試験期間は辛いものですがなんとか時間を見つけて執筆していきます!

今回は第108代後水尾天皇の御陵である「月輪陵」です。

※こちらの記事は“後編”となっております。前編は泉涌寺までの道中を綴った記事がございますので、そちらを先にご覧ください。

 

それでは参りましょう。

 

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慶長5年(1596年)に後陽成天皇の第三皇子として誕生します。同年において親王宣下を受けられ、同16年に後陽成天皇の譲位の意向に従い践祚しました。4月に紫辰殿において即位の大礼を挙行します。

天皇の即位は江戸幕府の意向が強く反映された即位となりました。先帝の後陽成天皇は家康との関係を保つためそれに従ったのです。朝幕関係は安定したものなっていくことが期待されました。

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この時、しばらく絶えていた立后の儀が執り行われます。立后したのはのちに東福門院と呼ばれる徳川和子です。和子は二代将軍秀忠の娘でした。この件からも、朝幕関係に重きをおいた徳川政権の実態がよくわかります。

しかし、家康がとったのは友好的な態度のみではありませんでした。禁中並公家諸法度の制定や「紫衣事件」はその例です。後者は、天皇が幕府の許可なくして高僧に与えられる「紫衣」を多数の寺院に下賜していた事件です。これに対して幕府は朝廷に圧力をかけますが、後水尾天皇はそれに反発し譲位を強行しました。

そして、和子との間に設けた興子内親王が即位します。これは明正天皇です。弟の紹仁親王(後の後光明天皇)が成長するまでの中継ぎの役目です。

天皇は挿花を大変好み、御所の南庭に仮屋を設けて貴賎の区別をせずに名に負うものたちを集め互いに競わせたそうです。和歌にも長けており、内親王に譲位後は仏道修行に専念しました。

在位18年に及んで寛永6年11月に譲位し、院政を引くこと51年にして延宝8年(1680年)9月11日に下御所において崩御なされました。御歳85歳と大変な長寿でした。同月22日にお舟入、警備を固くして夜の泉涌寺に到着します。すでに崩御していた天皇の皇子である後光明天皇の先例に従い、火葬はせずに土葬で葬られました。九重の石塔の形をなし、域内西北隅に建立されます。

 

さて、後水尾天皇からは一般に日本史の時代区分上、近世ということになります。天皇は応仁期に荒廃した皇室文化の再興に熱心でした。朝廷の誇りを胸に抱き、徳川政権の権力の増大に不快感を示しています。近世の始まりは朝廷が幕府に平伏し、意のままにされてきたかのようなイメージが付きがちです。しかし、まさに近世初めの天皇である後水尾天皇こそが、その二百数十年後に興る明治維新の若き種子であったのです。

 

たくさんの皇子女を設けた天皇は、幕府に立ち向かう勇武を見せながらも、和歌や挿花に興じる文武両道の体現者でした。

 

今回はここまで

 

第108代後水尾天皇 御名:政仁(コトヒト)

在位: 1611年5月9日慶長16年3月27日〉 - 1629年12月22日寛永6年11月8日

後陽成天皇の第三皇子

 

交通経路 

四条天皇陵編を参考

 

参考文献

北島静雄『歴代天皇陵総覧』新風舎

合田安吉『歴代御陵めぐり』大文館

笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』