王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

第72代白河天皇「成菩提院陵」〜天皇陵制覇の道〜

 

 

こんにちは。王室研究会です。

今回は、第72代白河天皇の御陵である「成菩提院陵」です。

それでは早速、参りましょう。

 

f:id:Fujisakiand:20200109001526j:plain白河天皇天下三不如意」という言葉をご存知でしょうか?

「鴨川の水、双六のサイ、山法師、これぞ朕の意に叶わぬもの」と言ってのけた白河天皇は、のちに三代の天皇にわたって展開される院政の初代を築きました。

天皇後三条天皇の第一皇子として、天喜元年(1053年)に生誕しました。父である後三条天皇藤原氏外戚としなかった天皇であったため、白河天皇の御世でも藤原氏の勢力は劣っていたままでした。

そのような理由もあり、院政がしやすいこともあったようです。

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白河天皇の御陵は鳥羽天皇近衛天皇と同様に京都鳥羽の地にあります。この白河天皇の御陵だけが少し離れたところにありました。御陵の隣は、地元企業のオフィスがありました。それに囲まれているようにして、前方には車通りが激しい大きな通りが走っています。上方には高速道路が通っています。

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何やら、この御陵だけが現代にタイムスリップしてきたような錯覚に襲われます。松の木が世界に境界線を引くかのように左右に植えられていました。御陵の敷地に入れば、車が颯爽と走る音も、消えてしまいます。

この前で写真を撮っていると、地元の方に不思議そうな目で見られてしまいました笑。

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鳥居に向かってまっすぐと波打つようにして、白い玉砂利が参拝者を導いています。右上にはワゴン車が止まっているのがわかると思います。それほど、隣のオフィスと接した場所にあるのです。

御陵は方墳です。今はそこに水を引いた堀に囲まれています。樹木が鬱蒼として茂っていました。

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御陵を囲む垣根は手入れが行き届いており、整然としていました。堀には水面をのぞく間も無く浮揚植物が所狭しとして育っていました。生物の気配はありません。

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御陵の後ろ側には道が通っています。ここまで近づくことができ、中には御陵の中に簡単に侵入できてしまうような場所さえありました。もう少しこの辺は手を入れてもいいかもしれません。

 

さて、白河天皇は、その天皇時代よりもむしろ、上皇時代の方が著名かもしれません。天皇が自分の皇子である、善仁親王(タルヒト)を皇太子にたてます。これが堀河天皇です。天皇は間も無く親王に譲位し、自身は院庁を開きます。

院政とは、上皇の幼い時からの身分がそれほど高くない従者が権力を握りやすい状況でもありました。藤原氏のよって阻害されてきた中小貴族が、上皇に従うのも納得がいく話ですね。

また、この時代は上皇たちにより「六勝寺」の建立も盛んに行われました。その中のひとつに法勝寺があります。これは白河上皇の勅命によって建立された寺院です。法勝寺は大伽藍を備え、まさに国王の氏寺と呼ぶにふさわしい姿でした。

晩年には殺生を厳しく禁ずるなどして、仏道に専念しました。浄土信仰を深めていった上皇は、大治4年(1129年)の7月に崩御なされました。御歳77歳です。

香隆寺の乾の野において火葬し、その火を酒を用いて鎮火すると、御骨を金銅の壺に入れ、それを白絹で包み、同寺に奉安しました。

鳥羽の地に建立されていた三重塔の下に納めます。しかし、現在に伝わっている白河天皇の御陵の形は方墳です。実は、建長元年において火災の被害を被り、その後にわたって再建されることがなく、その跡地に4尺ほどの土をもって、方形の形に成したそうです。

ふと歩いていると、見つかる。そんな御陵でした。

 

今回はここまで。

 

第72代白河天皇 御名:貞仁(サダヒト)

在位:1073年1月18日延久4年12月8日〉- 1087年1月3日応徳3年11月26日

後三条天皇の第一皇子。

 

交通経路

近衛天皇陵編を参考

 

参考文献

北島静雄『歴代天皇陵総覧』新風舎

合田安吉『歴代御陵めぐり』大文館

笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』

 

明治大学王室研究会 代表