王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

第107代後陽成天皇「深草北陵」〜天皇陵制覇の道〜

こんにちは。王室研究会です。

今回は第107代後陽成天皇の御陵である「深草北陵」です。

いよいよ、長きにわたる「深草北陵」が完結します。この御陵に最後に葬られた天皇です。

 

深草北陵の沿革は本シリーズ、『後深草天皇深草北陵」〜天皇陵制覇の道〜』において詳細を記させていただきました。そのため、深草北陵の詳細は省略します。写真も豊富となっていますので、是非そちらもご一読ください。

 

いよいよ最後です。参りましょう。

 

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後陽成天皇は先帝の正親町天皇の皇孫として誕生しました。時に元亀2年(1571年)のことです。父である誠仁親王は病で倒れ、その皇子であった天皇が即位する運びとなりました。

そして天正14年(1586年)に紫宸殿において即位の大礼をとり行いました。

信長亡き後の秀吉は、信長と同様に皇室の権威を後ろ盾にし、自身の権力基盤を固めようと試みます。

天皇は秀吉が援助するもとで有名な「聚楽第行幸」を行います。この時秀吉は皇室の文化や伝統を調べて、1000人以上で列を組む大行列を演出しました。自身も行列に加わり、還幸の際には金を献上したそうです。

家康もこの後陽成天皇から征夷大将軍を任じられています(将軍宣下)。しかし、家康の場合は禁中並公家諸法度を制定したりなど、皇室の権威を利用しながらも、その権力を押さえつける方針を取りました。

 

天皇は在位25年を以て慶長16年(1611年)3月に、皇子政仁親王に譲位しました。そして元和3年(1617年)に下御所の仙洞にて崩御なされました。御歳47歳でした。

 

9月20日泉涌寺にて御火葬し、翌日の朝に御拾骨したということです。権中納言正親町三条実有が御骨を深草北の法華堂に納めました。この時にあたり法華堂を修繕したということです。しかし、その60年後には再び廃れてしまいます。

 

さて、第107代目の後陽成天皇は、深草北陵に葬られた最後の天皇となりました。

まさに天皇の時代は、関ヶ原の合戦が行われたり、秀吉の朝鮮出兵が行われたりするなど、東アジアをも巻き込んだ壮大な時代となりました。

 

この先、武家による統治が200年あまり続きます。しかし、皇室の権威は決して廃れることはありませんでした。

「将軍宣下」を行われなければ、徳川将軍でさえも「上様」と言われてしまうのです。宣下の後に初めて源氏の棟梁である「征夷大将軍」となり得たのです。

 

長きに渡り連載した「深草北陵」。この後陽成天皇を以てして終わりとなります。

 

今回はここまで。

 

第107代後陽成天皇 御名:和仁 後に周仁(カタヒト)

在位: 1586年12月17日〈天正14年11月7日〉 - 1611年5月9日〈慶長16年3月27日〉

陽光院(誠仁親王)の第1皇子。正親町天皇の皇孫。

 

交通経路

京阪藤森駅から東方面に1km

 

参考文献

北島静雄『歴代天皇陵総覧』新風舎

合田安吉『歴代御陵めぐり』大文館

笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』

 

明治大学王室研究会 代表