王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

第106代正親町天皇「深草北陵」〜天皇陵制覇の道〜

みなさんこんにちは。明治大学王室研究会です。

本日は第106代正親町天皇の御陵である「深草北陵」です。

 

深草北陵の沿革は本シリーズ、『後深草天皇深草北陵」〜天皇陵制覇の道〜』において詳細を記させていただきました。そのため、深草北陵の詳細は省略します。写真も豊富となっていますので、是非そちらもご一読ください。

 

では参りましょう。

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正親町天皇は戦国時代の真っ只中に生まれます。時に永正14年(1516年)5月29日のことでした。

後奈良天皇の第2皇子として、弘治3年(1558年)10月に践祚します。その3年後、永禄3年(1561年)正月に京の紫宸殿において即位の大礼をとり行いました。

天皇はこの時、御年44歳でした。

朝廷の窮乏は、応仁の乱より事を発した戦国時代の到来により、さらに拍車をかけていました。今回の即位礼も満足のいくようには行われませんでした。毛利氏の献金を持ってして初めて即位礼の挙行に至りました。

しかし、織田信長の登場は朝廷の権力を回復せしめました。信長は朝廷の威光を後ろ盾に自身が天下人になる事を模索していきます。

内裏の宮殿を修繕したり、皇室との積極的な接触を試みました。

朝廷が権威を回復させた事例には、天皇自身の「綸旨」が発せられ、信長と敵対する勢力との和睦を命じることなどがありました。

 

この正親町天皇から、菊の花はその身に光を浴び、凛として咲き誇ろうとしました。

 

天皇天正14年(1584年)11月に皇太孫である和仁親王後陽成天皇)に譲位します。太上天皇となった後は下御所にて過ごしますが、文禄2年(1594年)2月6日に崩御なされます。御歳77歳のことでした。

 

その法要は泉涌寺で行われました。御大葬には陪臣など一人も追従する者はなく、僧が10人程度で葬列を組み、同寺で火葬されました。

遺詔に従い深草の法華堂に御遺骨を納めたとあります。しかし、乱世のためか史料に乏しく、また法華堂の荒涼も激しかったそうです。そのため確実とされるものではありません。

 

さて、正親町天皇は戦国の乱世に生を受けながらも、歴代皇祖と同じくして勉学に励む事を疎かにすることがなかったそうです。先帝と同じように般若心経を諸寺に下賜し、天下太平を祈願しました。そして、戦国の動乱も鎮まるかに見えた時、織豊によって担がれて朝廷の権威は再びその光を強くしました。

また、その御大葬は御歴代で最も貧相だったと伝えられています。しかし、皇室の威光のために腐心し、武士の力をも借りて取り戻した栄光は無駄にはなりませんでした。その最後が天皇たるものの様相を取らなくても、皇室の軌道を元に戻した正親町天皇の偉業は評価されるべきものがあるでしょう。

応仁の乱より苦心を強いられながらも、その深草北陵に眠る歴代天皇すべてが、民を思い、国の為に祈る「聖天子」であったことも肝に命じておくべきだと思います。

 

次回、いよいよ長きにわたった「深草北陵」に眠る最後の天皇を紹介します。

 

今回はここまで。

 

第106代正親町天皇 御名:方仁(ミチヒト)

在位:1557年11月17日〈弘治3年10月27日〉 - 1586年12月17日〈天正14年11月7日〉

後奈良天皇第2皇子

 

交通経路

京阪藤森駅より東方面へ1km

 

参考文献

北島静雄『歴代天皇陵総覧』新風舎

合田安吉『歴代御陵めぐり』大文館

笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』

 

明治大学王室研究会 代表