王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

第105代後奈良天皇「深草北陵」〜天皇陵制覇の道〜

こんにちは。王室研究会です。

 

今回は第105代後奈良天皇の御陵である「深草北陵」です。

 

深草北陵の沿革は本シリーズ、『後深草天皇深草北陵」〜天皇陵制覇の道〜』において詳細を記させていただきました。そのため、深草北陵の詳細は省略します。是非そちらもご一読ください。

 

では参りましょう。

 

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相変わらず朝廷の財政は貧窮していました。

先帝の後柏原天皇も即位礼を挙行するのに21年の歳月を要しましたが、後奈良天皇も10年の時を経て即位の大礼を挙げました。

 

第105代に列せられる後奈良天皇は、明応5年(1496年)に生誕します。

践祚は大永6年4月。御年は31歳。

即位礼を挙行するのに、多額な費用を朝廷は必死に集めようとしますが、結局それには10年の月日がかかりました。

北条氏、今川氏、朝倉氏の各大名が朝廷に献金を行い、さらに大内義隆が多額の費用を献ずると、漸く京都の紫宸殿において即位の大礼が行われました。

この年の7月に、天台宗日蓮宗が抗争状態に入り、その戦火が京都にまで飛び火し、洛中は大混乱に陥りました。

内裏にまでその戦火は襲いかかり、築地が崩れ、三条橋から内侍所の篝火が漏れ、左近の橘の付近には茶を貪るものがあったといいます。天皇の御簾に銀銭をつけた紙を結びつけておくと、天皇直筆の百人一首伊勢物語が東へ下っていくほどでした。

天皇が夢の中で詠じたという御製があります。

『梓弓 取るとも菊をいとうなよ 野は藤袴 いずれを見む』

皇室の衰退、ここに極まったということです。

また、在位中には度重なる洪水や飢饉で民を圧迫したことを、自らの不徳として慎み、伊勢神宮へ聖徳の興隆と国家平安を祈願し、般若心経を諸寺へ下賜したといいます。

有職故実に熱心に取り組み、困難な局面にも正面から立ち向かって行きました。

そんな中、在位31年を迎え、弘治元年(1557年)9月に崩御なされました。

同年11月22日の夜に葬送の儀が執り行われます。御車は泉涌寺より調進がありました。火葬に付し、25日の卯の刻に御収骨。権大納言広橋國光が御遺骨を奉じて深草北の法華堂に納めたということです。 

 

さて、この後奈良天皇ですが、その治世には度重なる困難が降りかかってきました。

先帝、先々帝よりの応仁の乱の影響を受け、貧窮した皇室財政は、またも即位礼を挙行することをしばらく許しませんでした。

御在位31年の中で、10年目にして初めて即位の大礼が挙行されますが、その時既に、天皇は自らの治世の3分の1の時を過ごしていたことになります。

そんな天皇は、自らの不遇な身をかまうことなく、古典の勉学に励んだり、災害が連続するのを自らの不徳として悔やみ、神仏に祈祷することをやめませんでした。

この時代の天皇は、一様にしてこのような行動をとっています。

国家の危機に及んで、民の安寧を祈り常に国民に寄り添う姿は、古今東西、皇室において変わることはありません。

 

今回はここまで。

 

第105代後奈良天皇 御名:知仁(トモヒト)

在位: 1526年6月9日〈大永6年4月29日〉- 1557年9月27日〈弘治3年9月5日〉

後柏原天皇の第2皇子。「後奈良」は平城天皇の別称奈良帝にちなむ。父の後柏原天皇桓武天皇の別称にちなんでおり、桓武 - 平城に対応した追号になっている。(Wikipedia より)

 

交通経路

京阪藤森駅から東方面へ1km

 

参考文献

北島静雄『歴代天皇陵総覧』新風舎

合田安吉『歴代御陵めぐり』大文館

笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』

 

王室研究会 代表