王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

第103代後土御門天皇「深草北陵」〜天皇陵制覇の道〜

こんにちは。王室研究会です。

今回は第103代後土御門天皇の御陵である「深草北陵」です。

 

深草北陵の沿革は本シリーズ、『後深草天皇深草北陵」〜天皇陵制覇の道〜』において詳細を記させていただきました。そのため、深草北陵の詳細は省略します。

ぜひ、そちらもご覧ください。

 

では、参りましょう。

 

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後土御門天皇の治世は、皇室権威が著しく低下する時代の始まりとなりました。特にその在位中は、過去から現在に至るまでの皇室の歴史の中で、最も貧窮していました。

後花園天皇の皇子として嘉吉2年(1442年)5月25日に誕生した天皇は、寛政5年(1464年)に先帝の譲位を受け即位しました。

天皇の治世中には、応仁の乱が発生しました。京都の街を焼け野原に変えた戦いは、皇室の権威を貶めました。これに対し、時の将軍足利義政は政治に関心を抱かず東山に引きこもり、その妻日野富子は高利貸しに手を染めるなどやりたい放題でした。

公家たちが地方に離散していき、朝廷の年中行事の開催も次々に中止となっていきました。この時に中止された大嘗祭東山天皇まで再興されませんでした。

有職故実を習い、そのような行事の再興に天皇は熱心に取り組みましたが、明応9年(1500年)10月31日において崩御されました。

在位中36年という長い治世の中で、天皇は大名の権力闘争に巻き込まれていき、失意のまま神去りました。

 

崩御の後に行われる御大葬も、皇室財政の窮乏でなかなか行うことができませんでした。泉涌寺から献上があるはずの棺も“桶”でした。幕府もわずかに出資すると、およそ2ヶ月後の同年11月11日の夜に泉涌寺で荼毘に付されました。御遺骨は権中納言甘露寺元長が深草の法華堂に納めました。

しかし、この法華堂も元は安楽行院内にありましたが応仁の乱の戦火により廃絶し、あたりは荒涼としていました。ただ法華堂が一つポツンと残っており、修繕を加えて守ったということです。

 

さて、この天皇諡号は漢字4文字で歴代天皇の中でも一番の文字数だと思います。そんな天皇応仁の乱や幕府の無能ぶりに嘆きました。

御所を転々として戦火から逃れ、いつの日かの皇室行事の再興を目指した天皇は、未だかつてないほどの朝廷権威の失墜の中で、崩御なされました。

室町時代末期は、皇室2600年の歴史の中でも特異なものでした。それでも天皇一条兼良などに師事し、皇室行事の復興を願った意思は強固のものにして、見習うべきものがあるように感じられます。

 

今回はここまで。ありがとうございます。

 

第103代後土御門天皇 御名:成仁(フサヒト)

在位:1464年8月21日〈寛正5年7月19日〉- 1500年10月21日〈明応9年9月28日〉

後花園天皇の第1皇子。

 

交通経路

京阪藤森駅から東方面へ1km

 

参考文献

北島静雄『歴代天皇陵総覧』新風舎

合田安吉『歴代御陵めぐり』大文館

笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』

 

王室研究会 代表