王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

第100代後小松天皇「深草北陵」〜天皇陵制覇の道〜

皆さんこんにちは。王室研究会です。

今回は第100代後小松天皇の御陵、「深草北陵」です。

連続でご覧いただいている方は、4回連続の「深草北陵」です。

この深草北陵には北朝天皇も眠っていますが皇統譜に従い、正式にカウントされている天皇のみを紹介していきます。

 

深草北陵の沿革は本シリーズ、『後深草天皇深草北陵」〜天皇陵制覇の道〜』において詳細を記させていただきました。そのため、深草北陵の詳細は省略します。是非そちらもご一読ください。

 

では、参りましょう。

 

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後小松天皇北朝第6代であると同時に、歴代天皇の第100代目とされています。

南朝後亀山天皇三種の神器北朝に譲渡したことを機に、天皇は第100代として君臨しました。もっとも、その即位は御年6歳にして未だ幼年での即位となりました。

この時代は、室町幕府の権力の増大が著しく、幕府が朝廷を意のままにしている状態でした。

左大臣となっていた足利義満天皇を自身の操り人形にしていきます。さらに義満は、武家においては平清盛以来の太政大臣に任じられ、幕府の専横はさらに加速していきます。

この時、朝廷権力の低下を示すものに、明の義満に対しての「日本国王」の冊封があります。

また、義満は、南朝後亀山天皇に神器の譲渡を提案しました。この時、また両統迭立に戻り、南朝側にも皇位が継承されていく予定でした。しかし、義満の意向がここにも反映され、本来皇統は南朝側に移るはずでしたが、天皇の第1皇子である実仁親王が擁立されます。これが称光天皇です。

天皇はこの称光天皇の治世にも上皇として君臨し、院政を執りました。称光天皇が病弱ということもあり、崩御した後は伏見宮貞成親王後崇光院)の皇子である彦仁王を立てました。これは後花園天皇です。

こうして院政を敷いた天皇は、永享5年(1433年)12月10日に東洞院正親町第で御年57歳で崩御されました。

泉涌寺において荼毘に附した後、同月27日に泉涌寺僧徒らによって葬送の儀が催されました。その日のうちに新中納言治部卿日野資宗がご遺骨を深草の法華堂に納めました。

 

天皇が生きた時代は室町幕府の権力が増大する時期でした。

義満の専横は目に余るものがあります。しかし、私個人としてはその義満でさえも「天皇」の位を狙えなかったことには、皇統の重みがその当時にも強く意識されており、それを守ろうとした人々がいたということでしょう。

後小松天皇は、南朝後亀山天皇から三種の神器を受け取り、その瞬間に「北朝6代目」から皇統譜が規定するところの正式な「第100代天皇」となりました。

この後の時代、皇室の歴史の中でも最も苦難となった「戦国時代」が到来してきます。

 

今回はここまで。

 

第100代後小松天皇 御名:幹仁(モトヒト)

在位:1382年5月24日〈永徳2年4月11日〉- 1412年10月5日〈応永19年8月29日〉

後伏見天皇の玄皇孫で後円融天皇の第1皇子。

 

交通経路 

京阪藤森駅から東に1km

 

参考文献

北島静雄『歴代天皇陵総覧』新風舎

合田安吉『歴代御陵めぐり』大文館

笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』

 

王室研究会 代表