明治大学王室研究会活動記録

非公認サークル、明大王室研究会の日々の活動を綴ります。この記事は代表一人で運営しています。サークルの総意では無いため、ご了承ください。日本皇室担当が執筆しますので、皇室の関連したものが多くなります。

第93代後伏見天皇「深草北陵」〜天皇陵制覇の道〜

こんにちは。王室研究会です。

今回は第93代後伏見天皇の御陵、「深草北陵」です。

連続しておりますね笑。

 

深草北陵の沿革は本シリーズ、『後深草天皇深草北陵」〜天皇陵制覇の道〜』において詳細を記させていただきました。そのため、深草北陵の詳細は省略します。

ぜひ、そちらもご覧ください。

 

では、参りましょう。

 

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3回目の深草北陵の紹介になってきました。素材の写真が残りわずかになり、この様なものしかありませんでした。お許しください。

最寄りは京阪藤森駅です。東方面に1キロ進みます。

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御陵までの参道の先に1棟の法華堂があります。蒼天を仰ぎながら歩いていると、なんだかどこかに吸い込まれてしまいそうな感覚がしました。

後伏見天皇は、正応元年(1288年)3月3日の桃の節句に生まれました。11歳で即位した所謂、"幼帝"でした。伏見天皇の第1皇子。

天皇の在位はわずかに3年に終わります。皇統は大覚寺統後宇多天皇の皇子である邦治親王が即位。これが後二条天皇です。

上皇となった天皇は二条富小路の新院に移り院政を開始しました。文保2年には伏見上皇後宇多法皇両統迭立の約束をしました。後二条天皇の皇子である邦良親王皇嗣として立てたことは、親王の祖母が持明院統の出身ということもあり、両統の和解を演出しました。

しかしこれに後伏見上皇は快く思わず、自身の皇子である量仁親王を皇太子とし、皇位を継ぐことを賀茂社に祈祷しています。

これは大覚寺統後醍醐天皇が譲位の意思を示さないことに対しての反発でした。

後伏見上皇後二条天皇崩御に伴い即位した大覚寺統花園天皇院政を執りました。花園天皇の治世に、幕府は両統の和弾を持ち込みましたが、これに失敗しています。これが世にいう「文保の和談」です。

笠置山に立て篭もった後醍醐天皇をよそに、時の執権北条高時量仁親王を即位させました。これが、北朝第1代光厳天皇です。しかし、周知の通り後醍醐天皇隠岐島からの還幸に伴い、光厳天皇は廃位になります。この時、一時的に院政が再開されましたが尊氏の入京により停止に追い込まれています。

そして、足利尊氏六波羅攻略の際には後伏見上皇は近江伊吹太平護国寺に御幸しましたが、後に京都に還幸し持明院に落ち着きました。

延元元年(1336年)4月6日、御年49歳で崩御なされました。嵯峨野において荼毘に付し、三福寺頓恵がご遺骨を奉じて深草北陵の法華堂に納めたということです。

 

この時代は後醍醐天皇の動向に目が行きがちですが、持明院統天皇上皇法皇らは各々異なった行動をしており、中々興味深いものがあります。

大覚寺統に現れた後醍醐天皇という存在は持明院統にとっては約束を守らない天皇、と思われたことでしょう。

戦前に起こった南北朝論争の結果、南朝が正当な皇統として歴代天皇に数えられました。

三種の神器が吉野にあったことが一番の原因だと思います。

しかし、その全天皇らが神武天皇にたどり着く男系子孫ということには、両統に差はありませんでした。

このことは万世においての皇位の基準になるものであり、これを守っていくことが現代の我々に求められてると思います。

 

今回はここまで。ありがとうございます。

 

第93代後伏見天皇 御名:胤仁(タネヒト)

在位:1298年8月30日〈永仁6年7月22日〉- 1301年3月2日〈正安3年1月21日〉

伏見天皇の第1皇子。

 

交通手段 

拙記事、『後深草天皇深草北陵」〜天皇陵制覇の道〜』をご覧ください。

 

参考文献

北島静雄『歴代天皇陵総覧』新風舎

合田安吉『歴代御陵めぐり』大文館

笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』

 

王室研究会 代表