王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

第50代桓武天皇 「柏原陵」〜天皇陵制覇の道〜

こんにちは。王室研究会です。

今回は「柏原陵」。桓武天皇の御陵です。

では、参りましょう。

 

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明治天皇陵である伏見桃山陵の参道の途中には桓武天皇陵へと繋がる別れ道があります。

ここからさらに歩くこと数十分。
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美しい濃緑の社叢に囲まれています。鳥のさえずりと玉砂利を踏む音だけが、その森に吸い込まれていきます。

開けた場所に出ると、宮内庁の木製の看板が現れます。これを見ると胸が高まります笑。
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目の前に立つと、白い砂利が引き締められた先に一つの鳥居があります。その向こうには森が広がります。
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実は桓武天皇の御陵の正確な場所の判定は未だ不明なままです。

昔は今と違った所が桓武天皇陵と治定されていました。

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伏見城が御陵に隣接していますが、この築城の際に桓武天皇陵はある人物に破壊されたということです。それは、豊臣秀吉です。
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こちらは丹波橋駅方面からの参道です。振り返れば目下洛内を見渡すことができます。

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桓武天皇陵への参道を示す看板がありました。

 

さて、先述しましたがこの「柏原陵」は不確定なものです。

最初は、山城国葛野郡宇多野を山陵の地としたらしいのですが、山林の火災によりこれを災いとみなして、その半月後に今の紀伊郡柏原陵に改葬したということです。

日本後紀と延禧諸陵式に柏原陵の記載があります。

鎌倉時代元寇襲来の頃である文永11年(1275年)12月29日、諸陵寮の御陵修治書にはその広大さが語られています。

その昔は、仁徳天皇陵よりも巨大とされていた桓武天皇「柏原陵」。天皇蝦夷征討政策や平安京造営など偉業を成し遂げました。

その一方で、弟の早良親王の怨霊に悩まされたり、百済系の高野新笠を妻とするなど破天荒な帝でした。

 

天皇権力が著しく増大していた当時、仁徳天皇陵に匹敵する陵が存在してもおかしくはなかったでしょう

私が踏んだ伏見の地も、昔は聖域たる天皇陵だったかと思うと、恐れ多いです。

 

桓武天皇 御名:山部(やまのべ)

在位:781年4月30日〈天応元年4月3日〉 - 806年4月9日〈延暦25年3月17日〉)

光仁天皇第2皇子。弟に怨霊で有名な早良親王(崇道天皇)がいる。

 

参考文献

北島静雄『歴代天皇陵総覧』新風舎

合田安吉『歴代御陵めぐり』大文館