王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

皇后陛下 56歳の御誕生日 

こんにちは。毎度お馴染み、王室研究会です。

 

本日12月9日(月)は雅子皇后陛下の御誕生日です。

 

さまざまなマスコミの不当なバッシングにより精神面に病を抱えていらした皇后さま。

 

しかし、パレードで見せた微笑みと涙は、私たちすべての人々に何か感じさせるものがあるのではないかと思います。

 

毎度、メンバーによる散文失礼します。

 

 

皇后雅子さま 56歳の誕生日 【朝日新聞デジタル
 
「近代皇室制度においての皇后」 令和元年 12月9日
 
 近代以前の皇后というものは、およそ明治維新後に確立された現在の「皇后」よりも遥かに閉鎖的であった。大宝律令が規定している敬称は「殿下」であり、「陛下」ではなかった。即位礼においても、高御座のみが用意され、皇后が登る「御帳台」は存在しなかった。御帳台が造られたのは大正天皇の后、貞明皇后の際であるが、この時は懐妊のため即位礼には皇后は出席が可能な状態ではなかった。新調されたものの、初めての使用例は香淳皇后からだったのである。
 維新の西洋の波は当時の皇室制度に激しい飛沫を飛ばしてきた。男女を平等に扱う思想は今までの儒教的観念の中で生きてきた国民にとって馴染みが薄いものだった。明治天皇の后である昭憲皇太后はそのような新しい皇室の皇后として世界の列強に並んだ。この時、皇太后は自らが率先として新日本建設のためのモデルとして立ち、女子教育の重要さを説いた。その有名なものに『金剛石』と『水の器』がある。‘‘金剛石は磨かずば珠の光はそはざらむ’’人は学んだそのあとが大事という。‘‘水は器に従いてその様々になりぬなり’’人は友を選んで交友を大事にせよ、という。皇太后は女子学習院に行啓しては将来の孫の妃を選別していたという。その孫こそが昭和天皇であり、皇太后の目に止まったのは時の久邇宮良子女王こと、香淳皇后であった。
 貞明皇后は、九条家出身の令嬢であったが幼少期は杉並村の高円寺で田舎暮らしをしていたという。幼少期のそのような経験も影響したのだろうか。その晩年にまで「大宮さま」と称され御所の奥深く控え、存在感を示していた。夫である大正天皇崩御し、裕仁皇太子の践祚の際、上座を譲る昭和天皇貞明皇后で揉めたこともあったという。昭和天皇にとっては、いくら自分が天皇の位にあろうと母親を下座に座らせるわけにはいかなかったようだ。しかし、貞明皇后は当今、皇位にあるのは先帝ではなく陛下と主張し一歩も譲らなかったという。また、昭和天皇の妃選定にあたっては昭憲皇太后に影響も受けながらも、良子女王の出身である久邇宮家との関係が粗悪になるほど干渉した。これは宮中某重大事件(詳細は省略する)においての久邇宮邦彦王の態度に納得がいかなかったことが原因のようである。加えて、良子女王は「女王」という身位で、華族出身の皇后よりも家の出自が高いことも影響していたという。良子女王自身とは関係は良好であったが、晩年まで久邇宮家にはなんとも言えないような感情を抱いていただろう。
 そのような歴代皇后が築いてきた確かな位は、その後も現在の皇后まで受け継がれている。近代以降、表舞台に登場した皇后は昭憲皇太后が築いた「国母」的性格のもとで様々な課題に直面しながらも、夫である天皇を支えてきた。それは今も同様であろう。現皇后、雅子皇后は自身の様々な精神的問題を今上天皇と共に、また敬宮内親王と共に今日まで歩んできた。この令和の御世に、2人の新しき「陛下」に注目していきたい。(了)

 

「陛下」とは‘‘階(きざはし)の下’’という意味で、そこから君主を見上げる様子を表します。

 

階の果ての御身であるお二人はまさに「両陛下」であり、恐れ多いことです。

 

皇后陛下の御誕生日を謹んで奉祝いたします。

 

王室研究会 代表