王室研究会連合活動記録

大学連合サークル、王室研究会の日々の活動を綴ります。

藤田覚『江戸時代の天皇』を読んで

 はじめに

天皇という存在を考える時に私たちは常にその存在に対して玉座の背後に積み重ねられた悠久の歴史に目を向けなければならない。一口に「天皇」と述べても、現代の天皇のみを見つめることでは、天皇に対する根本的な理解は得られない。

すでに、数多の先蹤が「天皇」という存在に対しての究明に及んでいる。それぞれの理想的な天皇像がそこには投影されており、天皇を語る上で、最初から平等的な見方などはないように思われる。

それは天皇が現在も続いている王朝の長だからに他ならない。

ところで江戸時代の天皇と聞いて何が想起されるか。

著者は近年でも発掘がされてこなかった「江戸時代の天皇」に対しての接近を試みている。この時代は、支配機構の法治が徹底され、それを担った江戸幕府が歴史の表舞台に君臨していた。一方、西を見てみれば確かにそこには朝廷が存在し、そこの中心には天皇がいた。天皇は決してその歴史の歩みをやめてはいなかった。現在に天皇がいることが何よりの証拠である。

江戸時代は近世に区分されており、私たちが生きる現代とは比較的近い時代である。近年、明治維新150周年を迎えたが、逆にたった150年前は江戸時代だったのである。

天皇制をその起源から現在までを概観する上で「江戸時代の天皇」は多少なりとも私たちの生きる現代の天皇制に何かしらのヒントを与えてくれると確信して、藤田覚『江戸時代の天皇』をまとめていきたい。

今回は著作を踏まえつつ私なりに江戸時代の天皇を三つに分割をしてみた。 

1 江戸時代前期の天皇(後水尾・明正・後西・霊元)

本書では「江戸時代の天皇」を108代後水尾天皇(代数は『皇統譜』より以下同じ)から121代孝明天皇までとしている。江戸時代の前半は見出しに掲げた四代の天皇が主に活躍している。それぞれの治世には常に父親である後水尾の存在感が強い。108代後水尾天皇は父である107代後陽成天皇の皇子である。後水尾は兄を強引に出家させ、庶子の身でありながら皇位を継ぐことに成功した。父親の後陽成とは険悪な雰囲気が続いていたようであり、それは平安時代の悪帝「陽成天皇」の加後号を父親の諡号に採用したところからも読み取れる。

次代は109代明正天皇である。7歳で即位したのは約800年ぶりとなる女帝であった。完全に中継ぎとしての即位であり、治世では四方拝や小朝拝を行うことができず、常時摂政が置かれた状態だったという。次に即位したのは110代後光明天皇だった。明正は無事に弟である後光明へ皇位を継承する任務を果たした。以後は後水尾上皇を本院と称し、譲位した明正は新院と称した。無事に譲国受禅は行われたかのように見えたが、生まれつきに病弱だった後光明は22歳の若さで病死した。父親の後水尾上皇の落胆ぶりは察するにあまりある状態だったという。明正の中継も意味のないものとなってしまった。

後水尾上皇は何としてでも自らの皇統の永続を図るために皇子の中からある一人を中継させることに決めた。それが111代後西天皇である。後西はこの時に後水尾上皇に誕生した高貴宮の成長までの中継ぎを任された。後水尾上皇の皇子はかなりの数にのぼるが、良仁親王後西天皇)は世襲親王家である高松宮家(後の有栖川宮家)を相続したために出家を免れていた。故に後水尾上皇は消去法で自分の皇子の中から次の天皇を選択し、白羽の矢が良仁親王に命中したのである。

後西については私も多大なる関心を寄せているが、別の記事に任せたい。男帝として中継ぎの役目を負わされた後西は高貴宮の成長とともに譲位をする。高貴宮こそが、112代霊元天皇である。四代続いた後水尾上皇の皇子による皇位継承霊元天皇で終わりを告げる。以後は霊元天皇の子孫が皇位を継承していった。末子相続が神代の昔より蘇った心地もする。霊元は幕府に対して強硬な姿勢でのぞみ、幕府派と判断したものはことごとく排除していた。また、霊元は父である後水尾と同様に、早期に譲位を実行し、朝廷のトップに君臨しようとしていた。幕府は霊元やその近習公家らを常に監視し、ここにおいても法による支配を徹底させている。

2 江戸時代中期の天皇(東山・中御門・桜町・桃園・後桜町・後桃園)

後水尾の死去に伴い霊元体制が確立され始めると、霊元は息子の東山に譲位をする。113代東山天皇の時代には大嘗祭の復興が達成された。戦国時代の後土御門天皇以来の快挙であった。しかし、この大嘗祭は不完全な形での復活となり、完璧な儀式を仕上げようとする一部公家などからは開催に対しての反対が相次いだ。また、幕府からは霊元即位時の先例から大嘗祭は行う必要がないとも言われている。それでも、霊元上皇の熱意が公家や幕府を動かし不完全な形での大嘗祭が挙行された。

この時代は霊元による院政が敷かれており東山はその崩御を待つまでは父の霊元に従属していた。一方で、霊元の反対勢力が東山を取り囲み、上皇の勢力を排除する動きも見られている。霊元の勢力が衰えると幕府との協調路線が目指された。幕府もまた禁裏御料の大幅な増加を図り朝廷との関係修復に力を入れていた。東山の時代からは朝幕関係の安定が恒常化し極めて平和な時期が続いた。ちなみに、東山天皇は後の世襲親王家である閑院宮家を創設させることを遺詔するが、東山の譲位にあたっては一悶着あったようである。東山は持病の悪化を理由に有栖川宮家からの女御である幸子女王が生んだ秋子内親王への譲位の意向を示したのである。実現されていれば、江戸時代には三名の女帝が生まれていたかもしれない。最終的に幕府からの諫言もあり、これは実現されなかった。東山が30歳の時だった。

次に即位したのは114代中御門天皇である。再び大嘗祭に注目してみよう。前回の不完全な大嘗祭は案の定批判の嵐に見舞われ、中御門の即位時には大嘗祭は再び中絶した。東山からの譲位であったが上皇はまもなく死去した。この時期の天皇は総じて上皇期間が短いことが本書では注目されている。上皇期間が短いということはそれだけ短命でもあった。

ここで東山の院政が行われることを誰もが予期していたが「新院」はあっけなく最後を迎える。そこで出てきたのが「本院」である霊元上皇だった。まだ死んではいなかったのである!東山を推す一派に一度は影目に追い込まれたが、皮肉にも息子の死によって宮中の奥底から這い上がってきたのだった。強い権限を振り回し公家を統制していく霊元が帰ってきたと誰もが思ったが、今度の霊元は比較的おとなしめだったようである。著者は霊元までもが幕府の一機関である天皇という枠組みを了承し、江戸時代の天皇になり果てたと述べている。強大な力を持つ幕府の前にはなす術がなかった。

霊元が幕府寄りを指摘し、痛烈に批判した近衛家とは本音と建前を区別できるようになっている。というのも後に霊元は近衛家への憎悪を込めた願文を京都の下御霊神社に奉納しているからである。幕府にへつらう近衛家がどうしても許せなかったようである。この時、近衛家後陽成天皇の子孫が家督を相続していた皇別摂家であった。

115代桜町天皇は歴代天皇の中でもかなりマイナーな方ではないだろうか。「桜町」という響き自体には奥ゆかしさを感じさせるものだと思う。この時代には数々の朝廷儀式が再興されている。また、大嘗祭は桜町の時にひとまずの完成形を得た。この大嘗祭は幕府が勧めたからだという。立場が逆転していた。朝廷は霊元が近衛家との交わりの中で残した面倒臭い勅定を重視していたようである。霊元の影響はその死後においても大きなものとなっていた。

桜町は大嘗祭以外にも七社奉幣使が室町時代より302年ぶりに再興させている。これらの朝儀再興は一重に幕府の献金があってこそのものだった。大嘗祭の費用も幕府は予定されていた金額よりもさらに献金を重ねて古儀の重要性を説いている。桜町の時代は幕府からの援助のもとで、後の王政復古の種ともならない微細な胞子が撒かれていたようである。

ちょうどこの時、尊王論が世間を賑わせていた。116代桃園天皇竹内式部から垂加神道の教義を進講されていた。これは後世に名高い宝暦事件である。これは幕府側の弾圧と認識されやすいが、実は摂家と公家衆との対立であったことを本書は示している。五摂家が信仰する吉田神道は既に日本文化の礎を形作り広くに分布していた。一方垂加神道は新興の怪しいものであり神仏習合を否定していた。このことを五摂家はひどく恐れたようである。

そしてまた桃園は『日本書紀』を公家衆から進講を受けている。これら一連の事項は等しく五摂家や幕府を震撼させた。五摂家にとっては天皇への影響力が自分たちより下の身分である中流公家衆へ移ることを警戒したようである。その一方で幕府の起源を損ねないためにも紛争しており、関白や武家伝奏の気苦労は計り知れないものがあったに違いない。このような五摂家中流公家衆の対立は幕末になって爆発する。明治維新が「公家たちの下克上」と称されることになる所以でありその萌芽でもあった。

次代は女帝である。117代後桜町天皇桃園天皇の死去を受けて即位した。桃園には幼い皇子がいたが皇太子に冊立されておらずいまだに若年であったために後桜町は中継ぎを行ったのである。後桜町が即位したのは23歳の時だった。通常なら尼門跡に入寺していてもおかしくない年齢であると著者は述べている。この真相は本書では明らかにされていないが、私が考察するに一部公家衆による推戴があったのではないかと思う次第である。

桃園が遺した皇子はすくすくと成長し13歳に達して即位した。これが118代後桃園天皇である。しかし、後桃園は23歳という若さでこの世をさった。後桜町は上皇となっていたが、甥っ子に先立たれる形となってしまった。叔母による中継ぎを経てやっとの思いで即位した後桃園は若年のまま失意のうちに死去したのである。同じような事例を明正と後光明にも見ることができた。後桃園には皇子がいなかった。伏見宮家から即位した102代後花園天皇以来の皇統は断絶を余儀なくされたのである。

3 江戸時代後期の天皇(光格・仁孝・孝明)

2で示した天皇の時期は皆が総じて若年で世を去っていた。1の時期の後水尾天皇霊元天皇が長命であったのを比較するとそれはさらに浮き彫りになる。皇統は安定を得ることが難しくなっていた。後桃園が皇子なくしてこの世を去ると皇位継承問題が発生した。継承すべき皇子の捜索が行なわれるとある一人の皇子にたどり着いた。それが閑院宮典仁親王の第6皇子である兼仁王だった。閑院宮家やそれに関連する光格天皇については別記事に任せることにして、ここではひとまず話を進めたい。

世襲親王家から即位した天皇は傍系の身分であることを自覚しながらも大規模な朝廷改革に乗り出す。天皇は9歳にして皇位を継いだので、始めこそは近臣の補佐の中で政務が執り行われた。やがて青年になると自ら進んで政治を取り仕切るようになり、学問を殊の外重視したようである。公家衆と共に勉強会を主催し朝廷全体の風紀を高めていた。天皇は公家たちとも談義も交わしていたようであり世襲親王家から即位した故での親しみやすさがあったのかもしれない。

一方で公家への統制は厳しく、違反した者は厳罰に処されている。飴と鞭を使い分けていたのだろうか。幕府に対しては強気な姿勢を維持しておりシーソーのような状態を長く続けていた朝幕関係に重石をのせた。朝廷への崇拝を求めていたのである。また、傍系からの即位であることをかなり根に持っていた節がある。後桜町上皇への返信には自身を「大日本国天皇兼仁」と称している。数々の朝儀の再興や幕府の寄進による御所の新造は光格の時代に達成されていった。

興味深いのはこの時期に「御所千度参り」というブームが起きていることである。著者は理由として度重なる飢饉に際して幕府側からの援助がないことを庶民が憂いたものであるとしている。京都市中のみならずその周辺地域や遠方からも御所を目指す動きが加速していた。宮家や公家衆はその旅人たちをもてなすためにお茶や握り飯などを配っていたようである。後桜町上皇は小リンゴ3万個を用意させて一人に一個を配らせた。朝に配って昼になくなるほどの盛況ぶりだった。京都所司代はやめさせることを提案するが信仰心からの行動を邪魔する必要はないとの「ご叡慮」を受け断念している。

光格は庶民に対して救い米を下賜することを幕府に提案した。民を慈しむ君主の徳が試されていた時期だった。後桜町も長期にわたって上皇として君臨していたが光格も同様だった。上皇を全うした光格には954年ぶりの待遇が待ち受けていた。即ち「天皇号」の再興である。歴代天皇は一部を除いて平安時代の63代冷泉天皇より「院号」が贈られてきていた。今、私たちは『皇統譜』に列する歴代天皇を〇〇天皇と呼称しているが、それは大正時代に定められた「皇統譜令」によるものである。それ以前はほとんどの天皇は〇〇院と称されていた。それが120代仁孝天皇の時に954年ぶりに「天皇号」が贈られたのである。

本書に引用されている『雲上明覧』には確かに光格には「光格天皇」と記され前代の後桃園には「後桃園院」とされている。天皇号は天皇権威の上昇をよく表していた。儒学者の中井竹山は「院号は大名から庶民まで使っている」ことを取り上げ「天子」には相応しくないことを主張している。この動きは「後桃園院」が死去した時にも検討されていたようである。それと同時に巨大な山陵の復活も企図されていたようなので、著者はもし実現すれば幕末の先駆けになっていたと指摘している。

いずれにしても、既に天皇権威は一時期どん底を見かけた時代を乗り越え、天にも達するような破竹の勢いで進撃していた。天皇号を復興させた120代仁孝天皇は光格と孝明に挟まれて影が薄い気がしなくもない。しかし、天皇号を復興させたのは仁孝の下であり後の華族学校である学習院の創設を進めたことは大きい。仁孝も学問好きだったようで、学習院は公家衆との勉強会の延長線だったようである。

121代孝明天皇は最近では世間での認知度も上がってきたように思われる。私の偏見を述べるのであれば孝明を知っていることは明治の前の元号を答えるようなものであると思う。この拙文を恐れ多くも読んでいただいている皆様にとっては信じられない事実かもしれないが孝明天皇の認知度は実際のところその程度であると思う。しかし、この孝明天皇が与えた並々ならぬ影響は幕末をさらなる混乱へと導き歴史の面白さを増大させている。幕末が面白いのは孝明天皇のおかげでもあるかもしれない!

孝明は先帝である仁孝天皇の急死を受けて即位した。久しぶりの践祚即位(受禅即位の反対)でもあった。著者はまず孝明が記した宸翰の多さを指摘する。即位した当時から日本の近海には外国船が出没し安全保障が脅かされていた。鎖国体制から脱却し、諸外国との通商の道へ選択を迫られていたのである。孝明はなんとしてでも外国を近づけさせまいと幕府に対して多数の「ご叡慮」を示している。それが宸翰の多くなった理由と著者は考察している。この時代の朝幕関係に目をやると、江戸時代初期では考えられないことが発生している。幕府の支配体制が揺らぎ雄藩の改革が成功に収斂されていくのに対して、幕府は朝廷の権威のみならず権力をにわかに利用し始めていた。

従来の幕府の専制は舵を失い、諸大名との合議によって事が図られていた。その中で、幕府は天皇という存在に対して一層目を配るようになっていた。正確に言えば幕府はその創始以来朝廷から目を離したということはない。大政委任論は松平定信を代表する幕府の執政者たちの共通観念でもあり朝廷の存在は幕府の存在をたらしめていることはこれまた共通した理解だった。その大政委任が今度は天皇によって利用されていく。孝明は大政を幕府に委任しているという立場を保ち続けていた。それ故に幕末に際してもあくまで公武の融和を望み三条実美らの倒幕過激派とは距離を置くようになる。むしろ距離を詰めて攻撃にかかっていたという方が正しいのだろうか。日本史を概観すると国の窮地に際して天皇が常に祭り上げられていく特徴がある。後世にはなるが、昭和期の全体主義への偏りは天皇を頼ったものであったに相違はない。

天皇はその圧倒的な権威の中で時代に翻弄され続けていた。孝明は老中の阿部正弘にペリー来航を「神州の一大事」と言い放ち幕府がこれをうまく対処するように申し付けている。阿部は返答に際して了解の意を示した。天皇が本来関与できるはずのない大政委任の中で孝明は幕府に対して指図をするようになり幕府もまた天皇を頼りとしていた節があった。そのような状態に危機感を表したのが薩長を代表する後の新政府側だった。

孝明の時代は細かく記していくとキリがない。今回の感想文から大幅に逸脱してしまう可能性もあるのでこの辺で勘弁願いたい。要するに孝明は大政委任の論理を逸脱し幕府への干渉を強めていた。一方で幕府側も天皇権威を不安定な状況に陥っていた幕府体制を支えるものにしようと試みる。しかし、同じく天皇を推戴する後の新政府勢力は幕府の支配の存続を認めず紆余曲折を経た中で国論は開国和親へと傾く。その中心には天皇がありその周囲を幕府や諸侯が取り巻いていた。

江戸幕府初期では中心には天皇が君臨し、その土台には確固とした江戸幕府の体制があった。しかし、幕末になると幕府でさえも天皇を取り巻く一支配層に成り下がっていた。ちょうど戦国時代における足利将軍家のような状態だったのかもしれない。歴史は繰り返されていき、日本は再び天皇を巡った争いに突入した。孝明天皇の死去によって、幼少の祐宮を獲得した新政府側に軍配は上がったようなものだった。幕府は一部勢力が輪王寺宮を推戴するがそこには新政府側の強大な武力が行使された。かくして今の日本の姿があるのである。

おわりに

幕末はやや駆け足になってしまいうまくまとめることが難儀だった。藤田氏は『幕末の天皇』も著述しているので幕末の詳細はそちらの感想文に託したい。

江戸時代の天皇は一体どんな存在だったのか。漠然とした疑問が私の中で浮かび、本書を手に取ってみた。天皇家の財政がどん底に陥っていたとされる室町・戦国期を経て織豊政権による至れり尽くせりの状態が続きようやく皇室にも春がきたと思った矢先の江戸幕府誕生である。江戸幕府は従来の支配勢力とは異なり朝廷を法によって縛り付けてきた。

後水尾以下四代はこれに反抗し皇室が始まって以来の屈辱に対して果敢に立ち向かった。東山を始めとしたマイナー天皇たちは安定した朝幕関係の中で宮中において高まる尊王論の息吹を受けながらも、神代より続く「万世一系」への帰属意識をより強めていた。傍系からの即位であった光格は朝廷の権威回復を計画した。私にはそれが光格自身の正統性を確保する上で不可欠だったからではないかと思ってやまない。現在にまで続いている閑院宮の血筋は光格が撒いた種が花を咲かしているのかもしれない。他方では江戸時代の天皇の祖である後水尾が撒いたものかもしれない。

私は天皇を法によって縛り付けた江戸幕府を評価している。そもそも、江戸幕府は諸大名や寺院勢力に対しても法による支配を行った。幕府体制に慣れていなかった後水尾や霊元はそれに抗おうとするがそれ以降は幕府体制の中に朝廷が組み込まれながらも、幕府統治の根幹をなす将軍宣下を行ってきた。名文論の立場から言えば明らかに天皇が優位に立っていた。それは大政委任の枠組みの中で時の老中(松平定信)もが肯定していた事実は大きいと思う。

皇室はその圧倒的権威を有す故に扱い方が難しい。それは現在でも同じことが言えるのではないだろうか。皇室は「君臨」することよりも「存在」することに価値を見ているのは、神君家康公とこの藤原が意見を一致させていることである。

どの時期を見ても、江戸時代の天皇は相変わらず面白い。現代天皇制を理解する上で近代以降の天皇のみに研究が偏りがちな行動をよく目にするが、私たちにとって江戸時代は決して遠すぎる時代ということはない。近世の朝幕関係やその中で繰り広げられた公家と天皇の対立、そして総勢14代の天皇の通史がよく理解できる極めて優秀な著であることを確信している。

あとがき

いかがでしたでしょうか。今回も拙いながら読書感想文という形で投稿させていただきました。内容に関しましては私の既存からの知識と本書から得られた知識とが混在し情報の出典が曖昧な箇所があります。反省すべき点ですね。

江戸時代は私も好きな時代なので以後は徳川政権についてもさらなる探究を行っていきたいと思います。

ここまでのお付き合いいただきありがとうございます。